2017年7月30日日曜日

悪魔の証明とはなにか(1)

さて、前回私は全能の神が存在しないことの証明をして見せた。しかし、人によっては訝しむかもしれない。「存在しないことは証明できるはずがないのだから」と。

一般的に、かなり広い範囲で、「存在しないことは証明できない。それは悪魔の証明だから」と考えられているようだ。しかし、実際のところ存在しないことは証明できるし、めんどくさいし手間がかかるし難しいのが基本だが、そんなに特別な証明ではない。

そこで、世の中に広まる悪魔の証明に関する誤解を解くために、いろいろと書いてみよう。まずは悪魔の証明が非難される理由から。

あまりにも雑すぎる考え方


悪魔の証明が批判を受ける理由は、あまりにも短絡的な、一言で言えばお馬鹿さんがそういう論法を好んだことにあるように思われる。それはつまりこういう理屈だ。

Aが存在しないことは証明できないんでしょ? じゃあAは存在するよね。認めるよね?」

正直なところ、こんな考え方をする人間がそんなにたくさんいたとは信じがたいものがある。小学生の時の私ですら、こんなことは言わなかっただろう。「Aが存在しないことが証明できないことは、Aが存在しないとは言い切れないだけであって、Aが存在することが確定したことにはならない」、そのくらいは小学生の私でも理解していたはずだ。

もちろん、全く同様にこうも言える。

Aが存在することが証明できないことは、Aが存在するとは言い切れないだけであって、Aが存在しないことが確定したことにはならない」

つまり、何かが証明できないとき、それは「そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない」という不定の状態に置かれているに過ぎない。その状態で、何かを確定したと考えること自体がそもそもの間違いだ。

全部探すなんて無理に決まってる


悪魔の証明が批判を受ける次の理由は、「ないことを証明するためには、世界中全部を探さなければならないが、そんなことできるわけがない」という誤解だ。もちろん、中にはそれ以外の方法がない場合もあるだろう。しかし、常にそうであるわけではない。

光速で走る列車の天井から発した光は、床に到達するかの証明で使ったように、背理法という考え方がある。これは非存在を証明するのにはとても便利だ。全部調べなくてもすむようになる。

素数には最大数というものがない。数学者はそれをすでに証明しているのだが、別に、自然数を全部調べたわけではない。定義上、自然数を全部確認することは不可能だから。無限集合だから、そういうやり方は通用し得ない。

素数に最大の数があると仮定すると、矛盾が引き出されてしまう。どんな素数を最大の素数と仮定しようとも、直ちにそれよりも大きな素数を生み出すことができてしまうんだ。このように「存在すると仮定すると、矛盾が引き出される。その矛盾を引き出してしまう可能性が、『存在するという仮定』しかないならば、その仮定の否定が証明される」というのが背理法だ。

つまり、全件探索をしなくても、その探索対象の特性を熟知しており、その対象がどこかに存在するとなればどのような結果が引き出されるかが分かっていれば、そういう起こるべき結果が起きていないということをもって証明とすることができるわけだ。

というわけで、全件探索なんか不可能だからというのは、悪魔の証明を非難する理由としては適切ではない。

他者に証明を押しつけすぎ


後述するように、これはお互い様ではあるのだが、「存在しないというなら、存在しないことを証明して見せてよ」という主張は多い。自分では存在するという証明をしようともせず、他者に対して証明を押しつけて、相手の証明にけちをつけるだけ、という人は結構多い。

しかもこの場合、態度も首尾一貫しなかったりする。時と場合によっては同じ人が「存在するというなら、存在することを証明して見せてよ」と言ったりもする。これらの人の場合、存在証明と非存在証明で、どちらを先にするべきかという意識はない。ただ、他人に全部押しつけたいだけだ。

さて実際のところ、非存在証明は可能ではあるのだが、存在証明よりも難しいことはある。背理法にしたって、矛盾を引き出すには多くの前提が必要だし、使える仮定は一つだけだ。複数の仮定の下で一つの矛盾が引き出されたとしても、どの仮定のせいで矛盾したのか特定できない。これでは背理法もお手上げだ。

背理法で証明するには、いくつもの条件がある。その条件の成立を待つよりも、たいていの場合は存在証明をしてもらう方が話が早い。

ところが、その難しい非存在証明を求めるばかりで、より簡単なはずの存在証明をしようともしないケースがある。われわれ人間には、だいたい合理的な判断力がある。程度の差こそあれ、ある程度合理的に考える。

より重い罪を犯した者には、より重い罰を与えるべきだと思うだろう。より軽い罪を犯した者にこそ、より重い罰を与えるべきだと思う人は、見たことがない。犯罪者は全部死刑にすべきだとか、そういうのなら見かけた気がするが。

同様に、より大変なことよりも先に、より簡単なことをするべきだというのは、人間としての当然の考え方だ。悪魔が存在するのかしないのかと問われても、存在しないことの証明は難しい。そもそも、悪魔がどういうものかが分からない。

悪魔が存在するとすれば世界はどうあるべきなのか。それも分からない。だから当然、矛盾も引き出せないから背理法も使えない。私が全能の神が存在しないことの証明でやって見せたように、悪魔がどういうものかを定義した上で、そういう存在としての悪魔が存在しないことならば、背理法も通用するかもしれないが。

だからさ。

だったら君が証明してみなよ、ということになる。「君は悪魔の存在を信じ込めるんだろう? 君をそこまで信じさせた理由があるはずだ。それを教えてくれ」と。

すでに持っているはずの証拠を出してくれるだけでいいんだ。それを見せてくれるくらい簡単だろう。そんな簡単なこともせずに、人に難しいことを要求するのはけしからん。

悪魔の証明というのは、こういう形で嫌悪されるのが本来の姿だった。


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