2017年7月31日月曜日

悪魔の証明とはなにか(2)

悪魔の証明についての解説、第二回。悪魔の証明とはなにか(1)の続きとなる。

悪魔の証明というのがどうして非難されやすいのか、その一般的な理由は解説したけれども、まだ足りない。実際のところ、悪魔の証明が嫌われるには別な理由がある。

非存在証明をすることの正当性を述べると共に、悪魔の証明が嫌われる隠された理由についても語ってみよう。

非存在証明は、ごく一般的に行われている。


いやごめん、やっぱり、「一般的」ではないかもしれない。だって普通の人は刑事事件に巻き込まれたりしないもんね。

だが、刑事ドラマを見たことのない人はさすがにいないだろう。いたら私はカルチャーショックを受けちゃうよ。時代劇を見たことのない人は多そうだけど、刑事ドラマくらい見るだろう。私は小さい頃、おばあちゃんと一緒に毎日時代劇を見ててなぁ・・・あぁ、そんな話はどうでもいいな。

アリバイって聞いたことあるでしょ。ないという返事は聞こえないものとする。あることにする。

アリバイとはつまり、「現場不在証明」だ。「不在証明」。OK? 「存在しなかった証明」のことなのよ。非存在証明以外の何物でもない。

というわけだから、刑事ドラマを見たことがあればまず確実に、非存在証明にも触れたことがあるはずだ。さて、アリバイってどうやって証明する?

一番簡単なのは、「ある事件が発生したとき、私は別な場所にいました」ということを証明すればいい。現在のところ、同じ物体が同じ時刻に、異なる2地点に存在する可能性は否定されている。いつかこの前提が覆される日が来るかもしれないが、今はまだ信じられている。だから、別なところにいたことが分かれば、そこ以外の場所にはいなかったことになる。

「ある場所に存在し、かつ、犯行現場にも存在した」という主張は、矛盾している。矛盾している以上、この矛盾を生じさせた仮定は否定される。すなわち、「犯行現場に存在した」が否定され、存在しなかったことになる。

さて、他者に対してアリバイを求めることがそんなにおかしなことだろうか? もちろん、刑事裁判において立証責任は検察側にある。だから、被告人はアリバイを証明しなくてもかまわないが、アリバイさえ証明できれば自分の無実が明らかにできるのに、それを証明しようとしないとしたら不自然だと思わないだろうか。

そして、アリバイさえあれば疑われずにすむのだから、アリバイを教えてくださいと要求することが、何か不合理なように思われるだろうか?

私にはとても、アリバイを尋ねることが不自然なようには感じられない。それはごく当たり前のことだ。そして、それに回答し、すぐに晴らせる疑いは晴らそうとするのも当然だ。ごねる必要性は見当たらない。

それ故に、非存在証明を要求すること自体に問題はない。「あなたが非存在証明をしてくれれば、すぐに問題は解決しますよ。だからやってみてもらえませんか」という要求はごく普通だ。

やはり問題になるのは、非存在証明の難しさ


アリバイというのは証明さえできれば片がつく。それ一発で被疑者候補から抜け出せる。だが、必ずしも証明できるとは限らない。

アリバイを証明するには、何かしらの証言、証拠が必要だ。誰かと会っていた、どこかのカメラに写っていたなど。一人で家にこもってゲームをしてました、という場合はアリバイにはならない。オンラインゲームなんかなら通信記録が残っているかもしれないが、そこで操作していたのが本人である保証はない。

状況的に、アリバイが示せないこともある。では、アリバイがなければ犯人なのか?

そんな馬鹿な話はない。アリバイのない人間ならいくらでもいるだろう。それ全員犯人か。

アリバイがないと言うことは、現場不在証明ができないということだ。つまり、犯行時刻に、犯行可能な場所にいたかもしれないし、いなかったかもしれない。どっちだか分からない状況。疑おうと思えば疑えるし、疑ってはいけない理由はないとも言える。

ここで推定無罪の原則が出てくる。「疑わしきは罰せず」というやつだ。疑わしいというだけで裁くことはできないという、至極もっともな主張がなされる。が、ここで人々は大きな勘違いをしてしまう。

推定無罪の原則は、裁判所の原則だ。人間社会一般での原則ではない。人によっては、推定無罪を拡大解釈して、「疑わしきを疑ってはならない」とまで考えている節がある。そうではない。「罰してはいけない」、んだ。

罰してはいけないし、疑わしいというだけで他者の名誉を毀損したり、誹謗中傷を行ってはいけない。そこまでは当然だ。だが、疑うのはかまわない。表に出してしまうと名誉毀損になるかもしれないから注意すべきだが、腹の底で「あいつは絶対悪いやつだ」と思うことまでは否定できない。

だって、無実である証明はされていないのだから。

ここで人々の態度は二つに分かれる。「疑わしいだけなのに疑うのは悪いことだ」と「疑わしいんだから疑うのは当然だ」だ。

言い換えれば、「好き」か「嫌い」かだ。

世にあふれるダブルスタンダード


歴史や政治の主張を見てみるといくらでもサンプルが転がっているが、アリバイのない人、疑わしい人に対する人々の態度は、好き嫌いで決まる。

好きな相手が疑われている場合は、「無実の証拠がないってだけで疑うなんて不当だ」と言い、嫌いなやつが疑われている場合は「やってない証拠がないのだから疑われるのは仕方ない」と言う。

そういうの、思い当たらない?

私としてはすでに述べたように、推定無罪の原則は裁判の原則に過ぎないから、疑わしいものを疑ってはいけない理由はないと考えている。が、別に、逆でもいい。首尾一貫して、好き嫌いで態度を変えないなら、疑ってはいけないと考えてもかまわない。筋は通る。

そしてこの傾向は、推定無罪とか、非存在証明とかに収まりきらない。より一般的にいって、「自分に都合のいい情報は正しいと信じるし、自分に都合の悪い情報は信じない」。

「悪魔の証明だ」と言って、非存在証明の要求を非難しているのが当事者の場合は、まぁ、非存在証明が論理的・数学的・科学的に可能であることを知らないか、悪魔の証明を勘違いして覚えてしまっているケースが多いように見える。

だが、当事者以外が「悪魔の証明だ」と言って追求を非難している場合というのは、実際のところは「自分に都合の悪い情報は信じない」というのが発端になっている。自分の好きなものが不利になりそうだから、とりあえず何でもいいから反論するために駆り出すのが、魔法の言葉「悪魔の証明」というわけだ。

だから実際には、非存在証明はそれほど特殊な証明ではないし、不可能でも何でもないんだけど、「不可能なことを要求するあいつらは不当だ」というレッテルを貼るのに使われる。

それが、悪魔の証明が嫌われる理由。悪魔の証明を求めることは不当であるということにしておけば、非存在証明をしなくてすむ。可能ではあるがめんどくさいし、高度なテクニックを要する背理法を使う手間が省ける。

逃げ口上の一種。というのが正体。




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