2017年11月22日水曜日

年功序列とは、前時代的ゆとり教育に他ならない

ゆとり教育が非難されている場面をよく見かける。常識外れの変なことをする若い人を「ゆとり」と呼んだりもする。

私はどちらかというとゆとり教育に対しては寛容で、必ずしも悪い物だとは考えていない。よく引き合いに出される学力の低下に関しても、理科の成績だけは上昇を続けている。ゆとり教育のせいで学力が低下したことを断定する資料は見たことがない。

が、ゆとり教育に問題がないと思っているわけでもない。例えば、学校の徒競走で順位を付けないという話を聞いたことがある。勝ち負けを決めるのはよくないから、手を繋いでゴールするというのだ。

こういうのはよくない。が、日本において長く続いている年功序列というのは、年齢順にお手々繋いでゴールする思想という点において、前時代的ゆとり教育に他ならない。

向上心を否定する心理は理解できない


ゆとり教育というのは過度の競争を否定する思想から始まっていたと思う。それが悪いとは思わない。ことさらに競争を煽り立てることには問題がある。これについては、またいずれ書くこともあるだろう。

しかし、だからといって競争の全てを否定する気にはならない。順位を付けることは優劣を付けるためには必要であり、優劣を付けることは、よりすぐれた人間になろうとする意欲のために必要だ。

今の自分が及ばないことがあるからこそ、そこに至ろうという努力をする気になる。周りがみんな自分と同レベルだという安心感の下では、遅れないようにしようという意欲がどうして湧くだろうか。

水戸黄門の歌ではないが「後から来たのに追い越され 泣くのが嫌なら さあ歩け」というのは、人間の自然な気持ちだ。競い合い、切磋琢磨するからこそ上を目指すことができる。そういう場合はとても多い。

常にそうだとか、そういうケースしかない、とまでは言わないが。

そういうわけで、ゆとり教育が競争を否定してしまったことについては、私としてもやはり問題があったと思う。向上心というのは大事な物であるはずだからだ。私が能力主義者である以上、そう思うのは当然のことだろう。

大切なのは能力。能力よりも優先されるものがあってはならない


ある職務、任務において、もっとも重要なのはそれを遂行する能力だ。かといって、犯罪者でも能力があれば不問にしろというわけではない。社会から除外しておくべき人々は別とする。

能力が重視されるからこそ、人々は自らの能力を高めようとする。順位を付けない徒競走のように、能力があってもなくても扱いが一緒なら、向上心には期待できない。

その意味で、年功序列というのは競争を否定したゆとり教育と同じ間違いを犯している。これは、歳を取っているだけの人間を、優れた若い人間よりも上に置く風習だ。そして、優れた同年代の人間と、あまり差を付けないという文化でもある。これは年齢順に手を繋いでゴールしているだけであり、ゆとり教育の悪い部分と同質だ。

ゆとり教育が向上心を萎えさせ、能力主義の障害となるならば、年功序列もまた同様に障害となる。能力による競争を否定し、年齢による整列を行っているのだから。

年功序列で得をするのは誰か


そもそも、年功序列によって得をするのはどういう人だろうか? 優れた人ではないだろう。優秀な人間は、能力主義でも問題がない。

年功序列のおかげで人並みの扱いを受けられるようになるのは、能力のない人間だ。無能な人間ほど、年功序列に助けてもらえる。足の遅い子でも、手を繋いでゴールすれば、ビリにならずにスムのと同じ理屈だ。

しかし、そのような能力のない人間に合わせて社会を形成すべきだろうか。私は別に、能なしは死ねと言っているのではない。能力のない人間だからと言って、その人の仕事を取り上げ、路頭に迷わせるべきだとは思っていない。

すぐれた人間よりも豊かさの点では劣るにせよ、生活は保証され、生存は確保されるべきだと考えている。あくまでも、より重要な、能力を必要とする役目を、優れた人間に与えるべきだと言うだけだ。

だが現在は、能力ではない、それ以外の不思議な物を基準に序列が決まっている。これでは、能力主義は徹底できないだろう。能なしを甘やかすだけでしかない。

能力がないからこそ能力主義では困る。だからこそ、年功序列にすがりつく。過去を慰めるために、未来を犠牲にしていく風習。

早いところ、こんな物がなくなってくれることに期待する。

が、なかなか難しいのが実情だろう。人口の大部分は無能だ。無能な人間が多数派を占めるなら、自分たちに有利な風習を変えようとするはずもない。世の中というのはめんどくさいものだ。


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