2017年11月11日土曜日

後継人事の難しさと奇跡的成功例

人事というのは難しい。人の資質を見抜く資質が必要とされる。が、たいていの人間にそんなものは備わっていない。

私は能力主義者だから、能力主義と成果主義の違い。なぜ人は人を正しく評価できないのかという考え方をしている。何より難しいのは、優れた人間を見抜くことだ。

それはとても難しいことであるため、能力主義を徹底することはできない。

が、歴史上は、それが実現する場合がある。今回は、そういうレアケースを語ってみよう。

古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス


私が考える、歴史上最も卓越した後継人事は、カエサルからアウグストゥスへのバトンタッチだ。

ジュリアス・シーザーとして有名な英雄、ユリウス・カエサルは、終身の独裁官となった。独裁アレルギーのあったローマにおいてこれは危険な挑戦だった。案の定というか、貴族達に暗殺されてしまった。

当時、カエサルの右腕として活躍していたのはアントニウスであり、皆がアントニウスが後継者になるのだと考えていた。ところが、カエサルが遺書で後継者に指名していたのは、まだ名前も知られていない若者だった。

それが、後のアウグストゥス。オクタウィアヌスだった。

オクタウィアヌスは確かこの頃17歳程度。公職も経験していなかったのではないかと思うが、細かい業績は本かwikiを調べ直さないと分からない。とりあえず確かなことは、周りの人はそれが誰のことなのかぱっと思いつかなかったということだ。

しかしながら、この少年は後にローマ帝国の基礎を築き、初代皇帝として偉大な業績を残すことになる。

カエサルの人選は神がかり的に大正解だったと言えるだろう。なぜ、その時期にそれほどの資質を見抜けたのか、私には想像もつかない。「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」なんて言葉もある。

何の実績もない子供を、実質的皇帝である自分の後継者に選ぶなんて事は、できるはずのないことだ。少なくとも、私はこれに匹敵する後継人事を、他に知らない。

五賢帝


ローマでは、もう一つの面白い後継人事がある。ローマの五賢帝と呼ばれる人たちだ。

ネルウァから始まり、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス、マルクスと続く五賢帝は、いずれも優れた統治を行った。厳密には、ネルウァに関しては、トラヤヌスを後継者にしたことのみが評価されているとも言えるが、そのような優れた後継人事ができたことは評価に値するだろう。

また、ハドリアヌスからアントニヌス・ピウスへのバトンタッチも、一度は後継者に指名した人物が創世してしまったが故の、やむを得ない処置であり、実際のところはマルクス・アウレリウスへの中継ぎでしかなかったとも言えるが、やはりアントニヌスもまた賢帝と呼ばれるに相応しい落ち着いた統治をしている。

五賢帝最後のマルクスには実子がいた。そのため、養子を取っての後継指名というのは途絶えてしまい、それが故にコンモドゥスという困ったちゃんを迎えてしまったわけだが、能力主義の観点からは、やはり世襲は向かないのだろう。

呉の都督の流れ


ローマから他に目を向けると、三国志の呉が目に付く。

孫策の友であった周瑜が呉軍を預かったが、体が弱かったのか赤壁の戦いの後に没してしまう。その後継者に任じられたのが魯粛。

魯粛というと三国志演義ではなんともぱっとしない、周瑜には小言を言われ、諸葛亮にはいいように操られと、人はいいが無能な人物のように描かれているが、実際はそうではないようだ。

呉軍の責任者として十分に適性があり、周瑜の後継者としても申し分がなかった。ただ、やはり魯粛もあまり長生きできなかったようで、すぐに呂蒙に交代することとなる。

この呂蒙、元々は生粋の武人で、学がなかった。ところが、あるとき学のなさを指摘された呂蒙は勉学に励み、知力を高めた。その結果、「呉下の阿蒙にあらず」と魯粛に評された。それ故にか、魯粛の後を継いで呉軍を預かった。

さて、その次に出てくるのが有名な陸遜。劉備の大軍を迎え撃って壊滅させたことで有名だ。呂蒙の相談に乗ったのがきっかけで、その才を見いだされ、呂蒙の推挙によって呂蒙の代理として軍を指揮した。

そして関羽を討つという大戦果を挙げたことで、呂蒙が没した後には正式に都督となる。

その陸遜の後を継いだ・・・というべきではないかも知れないが、実質的に呉軍を支える活躍をしたのが陸遜の子、陸抗になる。魏軍との戦いをよく持ちこたえ、敵将羊祜との間では名将同士の物語が残されている。

と、このように、呉では5代にわたって名将が軍の実権を預かることとなった。大部分は孫権の采配や承認によるものであり、孫権の活躍は、劉備や曹操と比べると地味なものではあるが、その人事の能力は卓越したものが見られる。


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