2017年8月23日水曜日

能力主義と成果主義の違い。なぜ人は人を正しく評価できないのか

私は能力主義者だ。当然、年功序列などは嫌いだ。年功序列がどういうものかは、またいずれ書くこともあるだろう。

今回は、似たようなものとして扱われている、能力主義と成果主義の違いについて語ってみる。

大事なのは過程か、それとも結果か


ごく単純化して言えば、能力主義は過程を重んじる。成果主義は結果を重視する。成果というのは、結果の一種なのだから。

一つ、わかりやすい例を挙げよう。「難しいことに失敗した人間と、簡単なことに成功した人間。どちらを高く評価するか」?

成果主義は、間違いなく後者を評価する。簡単だろうと何だろうと、成功し、よい結果を出したのであれば、失敗よりは高く評価する。わずかなプラスであろうとも、マイナスよりマシなのだから。

だが、能力主義はそうとは限らない。どの程度の失敗だったのか、どこまではできそうだったのかにもよるが、失敗したというただ一点でもって、他者を非難したりはしない。それを成し遂げられそうな人物がほかにおらず、ほかの誰がやっても失敗しそうなことだったのなら、それは低評価の理由にならない。

古代ローマでは、敗軍の将が罰せられなかった。軍権を預けられて出撃し、敗北して帰ってきた将軍でも、そこから学んだことがあるはずだと言って再び指揮官に任じられることがあった。

能力を信頼して送り出したのだ、もしそいつが無能だったのなら、彼を選んだ自分たちが無能だっただけの話だし、おそらくそんなことはない。やはり彼は有能なはずだ、ならばほかの誰がやってもきっとダメだったのだろう。依然としてその将軍こそが自分たちで一番優れた指揮官であるなら、何度でもその人に期待するのが最も成功率が高い。

そういう思考だ。

日本でも「勝敗は兵家の常」という考え方があり、戦闘に負けたからと言ってそれですぐに処分されるような国でもなかった。能力主義・成果主義の権化のように言われている織田信長でも、負けたから追放とか、そんなことはしていない。

能力主義と成果主義の違いのもう一つは、寛容さにあるとみている。

能力主義者の方が寛容だ。失敗は誰にでもあると思っている。だが、成果主義者は失敗を許さない。するとどうなるか。日本みたいになる。

成功するより失敗しないことが大事


失敗を許さない文化は、基本的に守りに入る。成功させようとして冒険すれば、失敗率も上がる。成功するより失敗しないことが求められる文化では、そんな冒険はしないようになる。

将棋で言う勝負手というものは指せない。もっと普通の手をさして負ければ非難も小さくてすむ。そういう状況になれば、誰でもそうするよねと言うことをしておけば、追求は弱い。

ところが、勝手にホントにそれで大丈夫なのかよと驚くようなことをして負けたら、それのせいで負けたんだと言われるだろう。実際の仕事は将棋と違ってチームプレーなのだから、敗北の責任を一人で背負わなければならなくなる。

例え、挽回する可能性の最も高い手がそれだったとしても、目立つことをした人を一番攻撃する。他人に責任を押しつけられるようになったチームメイトは大喜びで。

成果主義というのは基本的にこのように守りの思想なのだから、バランスをとるためには、攻めの思考をどこかで補強しなければならない。が、日本にはそれがない。

個人が大きな業績を上げたとしても、会社の業績として吸収してしまう。LEDの件なんかがそれに当たる。

成果主義を謳ったところで、個人の失敗は追求するが、成功は賞賛しないというなら、人々のとれる道は、失敗しないこと以外にあるだろうか。日本の成果主義では、結局非失敗主義にしかならない。

まぁ、たぶんそれが民族性にあってるんだろうから、それでもいいけど。

成果や能力を評価するためには


しかし、成果主義がそうなってしまうのも仕方のない部分もある。失敗はわかりやすい。だが、成果とは何だろうか。マニュアル通りに、過不足なくやっていたら成果なのだろうか? 特に評価するべき成果はどうやって計る?

これは能力主義でも同様の問題がある。能力主義は人の能力を算定し、高い能力を持つものを高く評価する考え方だ。では、その高い能力とやらはどうやったら計れるのだろうか?

これに対する明確な答えはない。それが、能力・成果主義の実現の難しさだ。

一応、まだ成果主義の方がわかりやすい。簡単なことだろうと成功すれば成功したというデータが残せるし、難しいことだろうと失敗すれば失敗したというデータが残る。結果だけ見て判断する成果主義は、まだ人間にも扱いやすい。

しかし私は能力主義者だ。当然、成果主義も好きではない。では、いったい能力主義社会などどうやったら実現できると思うのか?

理屈は簡単だ。実現は困難だが。

早い話、能力を正しく見抜くことができるような能力を持つ人間が増えればいい。その能力を持っていることを見抜ける人間がいないと、社会をそういう人に任せることはできないという指摘もあるだろう。

それについては、自浄作用にでも任せるしかない。この論法は無限に続くから、そのルートではいつまで経っても成立しないのは間違いない。

実際に人の能力を正しく見抜いているような人がいたら、その人を高い地位に就ける。そうすれば、今度はその人がほかの、人の能力を正しく見抜く人の地位を引き上げるだろう。これを続けていけば、最終的には能力主義社会が実現する。

問題は、で、その最初の方の人を誰が引き上げるのか、だ。

それは、たまたま高い地位に優れた人物がつくことに期待するか、もしくは人々が引っ張り上げるかだ。だが、人々にその役目を期待するのであれば、人々の判断力に期待しなければならなくなる。実現はなかなか難しい。

この難しさは二つの理由による。一つは、一般人にそんな能力があるわけがないという問題。もう一つはもっと根が深く、人間は利害関係にある相手の能力を公正に評価しようという気持ちすら持っていないこと。

社会における様々な発言を見れば分かる。人々の発言は、基本的に好きか嫌いかで決まる。正しいか間違っているかを基準にする人は、驚くほど少ない。そんな人に人の評価を任せて、正しい判断をしてくれることを期待できるわけもない。

たとえば我々がゲームをするときなど、キャラクターの能力が数値化して明らかになっているとき、プレイヤーはものすごい能力主義者に徹している。人はこれほども能力主義を徹底できるのかと驚くほど、能力さえあればいいという姿勢を貫ける。

が、現実社会では無理だ。ゲームのキャラクターとプレイヤーの間には利害関係はない。誰かをえこひいきすることで、自分に利益があるわけでもない。それなら能力主義者になれる。だが、現実社会では、気が合うとか合わないとか、出世以上のライバルだとか、派閥だとか、様々な要因で利害関係にある。

人の能力を見抜く能力がないことはもちろんだが、仮にあったとしても、能力主義など徹底できない。

だからもし、こういった利害関係から全く自由な、そして優れた知性を持つ存在があれば、それを根源とした能力主義社会の実現可能性はある。

AI

人工知能が、もしかすると遠い将来、そういう社会を作り上げることもあるのかも知れない。AIが世界の様々な利害と、ずっと無関係でいてくれればの話だが。


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