2018年1月16日火曜日

間違いが証明できないことは、正しいことが証明されたことにはならない(1)

時折、人々の言い争いを見ていると、不思議な論法を目にすることがある。これもその一つ。

「俺様が間違っているというのなら証明して見せろ。何? できない? そりゃそうだろ、俺様のいってることは正しいんだからな」というやつだ。

本気でこのような主張をする人は、かなりあれな人ではあるが、この論法がどうしておかしいのか、そのあたりを語ってみよう。

独我論


独我論というのがある。これは、世界には自分しか存在しないという主張だ。

まともな人間ならば、自分と他人を分けて考える。世界には自分と他人が存在し、自分がいないところででも、他人は何かしらの形で生きていると、普通はそう考える。

しかし独我論はそうではないという。他人などいない。目に映る全ては自分の認識。そこでそう認識されていることが、それらの全て。私の認識しないところで、彼らが私と同じように生きているわけではない。

そういう、とても不思議な考え方をする。そのときの自分というのは、おそらく我々が考えているような形での人間ではないのではないかと思う。自分しか世界に存在しない以上、自己を離れては空気もない。生物学が教えるような姿で自分が存在しているとしたら、気圧とか重力とか、どうなってしまうのだろうか。

この、統合失調症の患者が思い描きそうな意味不明な世界観だが、実はこの主張が間違っていることを証明することはできない。少なくとも、今のところ誰も証明できていない。世界に自分しか存在しないと考えても、筋は通ってしまう。

よって、もしも「ある主張が間違っていることが証明できないなら、その主張は正しいのだ」という主張を受け入れてしまった場合、我々は独我論が正しいことも受け入れねばならなくなる。

が、こんなグロテスクな考え方を受け入れるのは気分が悪いだろう。

世界五分前創造仮説


こんな話もある。

世界は五分前に誕生した。

五分より以前の情報、記憶、資料も何もかも、全てがまるでそれ以前からあったかのような姿で、五分前に誕生した。昨日の記憶や修学旅行の写真、戦争の傷跡、石碑、クレーター、化石も樹齢千年の大木も全部。

この考えもまた、間違っていることが証明できない。しかも、今回は五分前創造仮説を受け入れるだけでは解決しない。

56の間には、無限の実数が存在する。つまり、世界5.1分前創造仮説とか、世界5.11分前創造仮説などが作り出せる。

理屈は全部一緒。当然、そのどれ一つとして間違っていることを証明できない。ということは、それを全部受け入れることになる。

が、「世界はいつ誕生したのか?」という問いに対して無限の回答があるというのは意味不明だ。君の誕生日はいつ? と聞かれて、「毎日だよ」と答えられても困るだろう。

確かに私は青年~徳とは何か~でそういう話をした。存在は無限回作り替えられる。そういう意味で、そのたびに新しく誕生しているとは言えるかも知れない。

だが、誕生日が複数あるのとは意味が違う。誕生日というのは、自分を構成する細胞が一つ新しくなったくらいで変化しない。出生した年月日のことを指す。毎日が誕生日というのは、誕生日という言葉の意味が通じていないようにしか思えない。

よって、件の「間違いが証明されない主張は正しいと認めなければならない」という主張を受け入れられる人間というのは、毎日が誕生日という主張を認められる人間でなければならない。

普通の人間は、こんなものは受け入れられない。これを受け入れられそうな人間は、見たことがない。

間違いが証明できないということは?


では、間違いが証明できないということは何を意味するのか? あまり深く考えなくていい。つまりそれは、「間違っているとは言い切れない」ということだ。それ以外ではない。

同時に「間違っていない事が証明できない」場合はどうなるかといえば、それも単純に考えればいい。「間違っているかも知れないし、間違っていないかも知れない」という状態だ。

どうにかして自分に有利な結論を引き出そうとするから、余計な飛躍をすることになる。

「月にウサギがいる」という主張の間違いが証明できるまで、「月にはウサギはいない」とは言い切れない。そして、月にウサギがいることの確認が取れるまで、その主張が正しいことは未確認だ。

これは「地球に異星人がいる」とか「この世に神がいる」とかでも同様。いることの確認が取れないからといって、いないことの証明にはならない。このあたりは、誤解を受けやすいように思われる。

ただし、事態を単純化して捉えたいという思想の下、いないことを想定するモデルで世界が説明づけられるから、いないと考えることにする、ということはある。これは、いないことが証明された、というわけではなく、そう考える方が役に立つからそうする、ということでしかない。

ある情報から、それで何が証明されたことになるのかを考える際には、あまり飛躍をしないように注意した方がいい。




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