2017年10月30日月曜日

青年 ~徳とは何か~

20年ほど前に文学賞に応募したもの。43000字に及ぶ長編なので、時間のあるときにでも読んでくれれば。

ただ、区切りとしての章とかがないので、何回かに分けて読むときは不便かも知れない。記事を分けたりした方がいいのかも知れない。

テキストデータだから、ちょっとくらい長くても読み込みにたいした時間はかからないとは思うけど、読み込みが遅いとかの問題があれば、教えてもらえれば対応しようと思う。

青年 ~徳とは何か~

青年
 その魂の一部とはいえ、古の賢者とお話しできることを光栄に思います。

ソクラテス
 遙か異国の過ぎゆく時代の青年よ、僕に話しがあるのかい。僕は君に教えられるようなことを何も知っていないし、それは君もよく知っているはずだけど。

青年
 魂の産婆を自認する方に、智慧を産んでもらうことは求められないのでしょうね。それについては承知してますので、どうか私と共に考えて下さい。答えを教えて下さいとはもうしません。

ソクラテス
 そういうことならおやすいご用さ。誕生した答えが育てるに足るかどうか、見てあげるくらいはできるはずだよ。

青年
 では、お聞きしますが、徳とはなんなのでしょうか。

ソクラテス
 君もうそつきだね。今しがた、答えを教えてもらうつもりはないと言っておきながら、さっそく答えを聞きに来た。それよりもまず、君が徳をなんだと考えているのか聞かせてもらいたいものだが。

青年
 古き時代の賢者よ、あなたはプロタゴラスにたいして、メノンにたいして、アルキビアデスにたいして語っているではないですか。徳とは知識であると。

ソクラテス
 プラトンが書き残したものだね。しかも、君が読んだものはさらにそれをうけて書かれたもの……のさらに君の国の言葉になおしたもの。そんなものが、僕それ自体を書き表していると思うかい?

青年
 そのものでなくともかまいません。それが本質的な部分を継いでいる限り、あなたはやはり賢者であり、この問いにたいして共に議論を進める価値のある方だと思われます。

ソクラテス
 では、ひとまず僕がそれだけの価値のあるものだと仮定しておこうか。
 しかし青年よ、徳が知識であるというのは僕が言った言葉なのかい?

青年
 あなたと、ほかの方々との問答の末、たどり着いた結論であると思われます。

ソクラテス
 でもそれは、僕の結論ではなく、僕の話し相手の結論ではないのかい? 僕には、自分で智慧を生み出す力はないのだからね。

青年
 そうかも知れません。では、賢者よ、あなたは自分たちの議論によって誕生した結論がまがい物であると思われますか?

ソクラテス
 そうでないとは言い切れない。けれども、僕たちはどんな結論を出したのだったろうか? 物覚えが悪いのでね、一度思い出させてくれるかい?

青年
 あなたはプロタゴラスにたいして言っています。
 「悪を悪と知りながら、悪を求めて悪を行うものがいるはずはない」と。なぜならば、人がそれを悪と呼ぶのは、瞬間ごとに快をもたらすからではなく、その快を手にしたのちに、より大きな苦をもたらすからである。食べ過ぎがよくないのは、食べることが悪いことだからではなく、食べ過ぎた後におなかを痛めたりするからではないのでしょうか。

ソクラテス
 そうだね。

青年
 金銭の浪費が悪いことであるのは、お金で何かを買うことが悪いことであるのではなく、必要ないものを買いすぎて必要なものを買えなくなって苦しむことになるからではないでしょうか。

ソクラテス
 その通りだと思うよ。

青年
 人が悪と呼んでいるものは、その人自身にとって苦しいことだと思われますが、いかがでしょうか。

ソクラテス
 確かに、そんな話しをしたようなことを、思い出してきたよ。

青年
 おなかが痛むことが自分にとって苦しいことであることを知りながら、おなかを痛めるためにおなかが痛くなるようなことをする人間がいるでしょうか。見返りとして、何かほかの快なるものが待っているというのでもないのに。

ソクラテス
 うん。いるとは思えないね。

青年
 これを、善の立場から見たらどうなるでしょうか。
 「善を善であると知りつつ、善を求めずに善を行わないものがいるはずがない」とも言えるはずです。
 人がそれを善と呼ぶのは、うれしかったり楽しかったり安堵したりするからです。国が平和であることを善と言い、病気が癒えることを善と言い、富み栄えることを善という。
 傷口を焼いたり、まずい薬を飲んだり、体を鍛えたりすることも善と呼ばれます。それは人に苦痛を与えないからでしょうか? そんなはずはありません。いずれにしろ、何かしら大変な思いはしなければならないものですし、できるならばそのような苦痛を避けたいと思うものがほとんどのはずです。けれども人はそれを求め、それに善いことという名を与えている。
 なぜならば、それらは一時苦痛を与えはするけれども、その後より大きな快を人に与えるからではないのでしょうか? もしくは、より大きな苦痛を取り除くからではないでしょうか。

ソクラテス
 そうに違いないと思うね。

青年
 すると、善とは人にとってより快なるものであると言うことになりませんか?

ソクラテス
 なると思うよ。

青年
 とてもおいしい薬で、飲むだけで楽しく、今かかっている苦しい病を癒してくれるようなものを、全く副作用がないと知っていながら飲まないと言うような人間がいるでしょうか? 飲んではならないような理由が何一つもないとして。

ソクラテス
 いるものなら見てみたいし、きっとお目にはかかれないだろうね。

青年
 しかし、実際にはどうでしょうか。おなかを痛める人もいますし、治療を拒む人もいないわけではないのです。それについて、あなたの口から考えをお聞きしたいと思いますが。

ソクラテス
 今まで同意されたものから言うと、当然こういうことになると思う。
 おなかを痛める人は、それをそうすることでおなかを痛めることになると思っていなかったと言うこと。治療を受けない人は、治療を受けることで自分が問題なく癒されると思っていなかったと言うこと。
 でないならば、その人たちはそうしなかったはずだからね。

青年
 つまり、その人たちは間違った認識をしていたということですよね。実際それがどういう結果をもたらすかを、正確に知らなかったと。

ソクラテス
 その通りだと思うよ。

青年
 物事を正確に知っているとは、知があるということですよね。

ソクラテス
 もちろん。

青年
 では、物事を正確に知っていなかったとは、知がないということですね?

ソクラテス
 当然、そうだと思う。

青年
 おなかを痛めた人や、治療を拒む人たちは、それが結果的に苦や快をもたらすものであることについての知を持っていなかったことになります。悪や善であるということに関する知がなかったと。
 知がないこととは、無知に他ならないのではないでしょうか。

ソクラテス
 だろうね。

青年
 つまり、悪を行ったり善を行わなかったりする人たちとは、善悪についての知がないという意味で、無知な人間たちなのであるということです。

ソクラテス
 そういうことだね。

青年
 というような話しを……一緒にしては失礼かも知れませんが……あなたとプロタゴラスがしていたのです。思い出されましたか?

ソクラテス
 何とか、思い出したような気がするよ。

青年
 では、先に進んでもよろしいですか?

ソクラテス
 メノンとは、どんな話をしていたんだっけ?

青年
 仕方ないですね。それもお思い出してもらわねばならないでしょう。
 あなたはこんな話しをしていました。
 「徳とは教えることができるものなのだろうか? それとも、教えたり教わったりすることができないものなのだろうか?」。あなたは徳がなんであるかを知った上でそれについて話したいと言っていましたが、メノンはとりあえず先にこの問題を考えたいと言いました。仕方なくあなたは、どういうものが徳であれば教えられるかと言うことを考えた上で、徳がそれであり得るかを話し合うことにしたのです。

ソクラテス
 うん、そうだった。

青年
 もし人が人に教えられるとするならば、それは知識以外にあるでしょうか。

ソクラテス
 知識でないものを、人が人に教えるというのは無理だと思うね。

青年
 とすると、徳が知識でないならば徳は教えたり教わったりすることの出来ないものであるということですね。

ソクラテス
 そういうことだ。では、徳とは知識なのかい? それとも、それ以外のものなのかい?

青年
 徳とは善いことのことではありませんか?

ソクラテス
 善いことのことだと思うよ。

青年
 善いこととは、人にとって快なるものであることは了解されましたね。

ソクラテス
 うん。

青年
 快なるものを行うことが徳であるということではないですか?

ソクラテス
 そうなるはずだ。

青年
 快を行うためには、何が快であるかを知っていなければならないのではありませんでしたか?

ソクラテス
 その通りだ。

青年
 すると、人が徳を行うためには何が快であるかを知っていなければならないのですよね。

ソクラテス
 もちろんさ。

青年
 徳を行うこととは、何が快であるかを知っていることではないのでしょうか。人は快であるものを快であると知りながら、快を行わないことは考えられないと結論されたのですから。

ソクラテス
 そういうことになるね。

青年
 つまり徳とは、何が快であるかについての知識に他ならないと、こう結論されるわけです。

ソクラテス
 うん。そうだね。

青年
 ところがあなたは言います。「ところで、徳と僕たちが呼んでいるのは、人にとって善いことであり、快なることであり、立派なことであり、美しいことのことなのではないか?」。メノンは、同意します。「では、ある人があるものを、それが自分の体にとってよい影響を……たとえば傷が早く治るとか、痛みが和らぐとか言うような……与えることを知らずに、それを食べたとしよう。その人にとって、それを食べたことは、善いことだっただろうか? 快なることではなかっただろうか?」

ソクラテス
 言ったような気がするよ。僕の言葉とは違うと思うけど、確かにそういうことを言ったね。
 それは、その人にとって確かに善いことであり、快なることであると思うよ。

青年
 ある政治家が、ある政治を行うことで国が善くなると言うことを知らずに何かを行ったとします。そして、国は富み平和になりました。この政治家は善いことをしたのでしょうか?

ソクラテス
 善いことをしたと思うよ。

青年
 善いことであるならば、徳でもありますよね。

ソクラテス
 当然、そうあるはずさ。

青年
 では、この政治家はそれがそういう風によい国になることを知っていてそうしたのでしょうか?

ソクラテス
 知らないでそうした、という前提があるんだもの。知っていたとは言えるはずがないよ。

青年
 それが徳であることを知らずにも、徳を行うことが可能であるということではないでしょうか。

ソクラテス
 そうなるね。

青年
 知らないとは、知がないことであり、無知に他なりませんね。

ソクラテス
 うん。

青年
 すると、無知なるものによっても徳は行われうるということになります。

ソクラテス
 そういうことだ。

青年
 どう考えるべきでしょうか。徳とは知識のことなのか、知識でないもののことなのか。

ソクラテス
 どちらでもあり得るというのではいけないのかい?

青年
 そう考える方が正しいのかも知れません。
 ここであなたは言います。知識とは、人が人に教えることのできるもののことであり、人が人から学ぶことのできるものであると。

ソクラテス
 言ったかも知れないね。

青年
 人が人に教えることのできるものであるならば、人はだれかに教えるはずであろうし、人が人から学ぶことのできるものであるならば、人はだれかから学ぶはずでもあるはずだと。

ソクラテス
 うん、確かに僕はそう思っている。

青年
 あなたはまた、ペリクレスやテミストクレスたちを引き合いに出して、彼らの持っていた徳を讃えている。しかし、同時に彼らの徳がその子どもたちに学ばれた様子がないといっている。誰よりもまず最初に教えるはずである子どもたちですらそれを学んでいないというのは、徳が教えられるものではないからではないのかというわけです。

ソクラテス
 そうだった。

青年
 徳とは人が人に教えることのできないものであるという結論に達しました。知識とは、学んだり教えたりできるもののことであるとされています。徳が人に教えることのできないものであるならば、徳とは知識ではないのだということになりませんか。

ソクラテス
 なるはずだよ。

青年
 よってあなたは、徳とは知識ではなく、学ぶことも教えることもできないものであり、人は神からそれを与えられるのだというわけです。

ソクラテス
 確かに、そういったようだね。

青年
 しかし古い時代の賢者よ、あなたの時代に、空の飛び方を教えたものがいましたか? 月へ行くための方法を学ぶものがいましたか? たった一個の兵器で都市一つを廃墟にするような知識が存在しましたか?

ソクラテス
 そんなものは、僕たちのまわりにはいなかったし、なかったよ。

青年
 ですが、私達の時代にはあるのです。飛行機や気球、ハングライダーなどというものによって人が空を飛びます。スペースシャトルで月面に降り立った人もいます。原子爆弾によって、事実都市が廃墟と化しました。

ソクラテス
 まるで君たちは、神様のようだ。とても、同じ血を引く人間とは思えないよ。

青年
 神様なんかじゃありませんよ。普通の人間です。ただ、我々の時代とあなたの時代とでは、ものを観察したり考えたり発見したりした経験が違うだけなのです。我々は、非常に多くの経験を得た文明の中で生まれましたから、あなた方よりも多くのことを知ることが出来るのですよ。

ソクラテス
 多くのことを知っているならば、やはり僕たちよりも君たちの方が知のある人間だということなのではないかね? 知のある人間であるならば、徳のあるものでもあるのではないのかい?

青年
 これは、賢者の言葉とも思えませんが。長く眠っていたせいで、寝ぼけているのですか? それとも、私の起こし方が悪かったのでしょうか。賢者よ、あなたはなんに関する知識を徳であると呼んでいましたか?

ソクラテス
 快に関する知識、と答えればいいかな。

青年
 はい。ところで私たちの時代の人間があなた方よりもよく知っている知識というのは、快に関する知識ではありません。あなた方が呼ぶところの、体育術であり、計量術であり、笛吹きの術であり、将軍の術であり、靴屋の術であり、商人の術であり……つまりそういうものなのです。
 計量術についての知識が、徳についての知識であると思われるのですか?

ソクラテス
 思わないよ。

青年
 では、体育術の知識が徳についての知識ですか?

ソクラテス
 いやはや……これは参った。確かに、寝ぼけていたようだよ。さましてくれてありがとう。たしかに、もし本当に君たちが僕たちよりもたくさん持っている知識がそういうことに関する知識だけならば、君たちの時代の人間も僕たちの時代の人間も徳については何も変わっていないということになる。

青年
 話しを戻しますが、あなた方の時代には誰も教えなかったし学ばなかったことが、今の時代では知識として存在しています。これらはそもそも知識でなかったものが、知識として誕生したということなのか、それともそれらは元々知識であったけれども、誰も知識として持っていなかったからこういうことになったのでしょうか?

ソクラテス
 元々知識でなかったならば、いつまで経っても知識にはなれないと思うよ。ただ、誰も知らない知識があるということについて、疑問を挟む余地はあると思うけどね。

青年
 たしかに、誰も知識として持っていないのに、それを知識という名で呼ぶのはおかしなことです。なんと呼べばよろしいでしょうか。名前はなんであろうと、意味がそれを現せればよいのですが。

ソクラテス
 そうだね……神によって与えられる必要のないもの、というのはどうだろうか? 我々は、知識とは人の間でやりとりできるものだといった。知識でないものであるならば、それを与えてくれるのは神以外にはないだろうと。君たちが学んでいるものは、我々の時代には知識として存在しなかったのだから、空を飛ぶような知識は、我々の時代には知識という名で呼ぶことが出来ない。かといって、君たちの時代にはそれが知識として存在しているのだから、神によって与えられなければならないものでもない。
 我々の時代のものとしては、それをただ、神を必要としないもの、とでも呼ぶしかないのではないだろうか。

青年
 神を必要としないとは、人間が自力で手に入れられるということですね。

ソクラテス
 そうなるね。

青年
 とすると、あなたの時代にだれも教えもしなかったし、学びもしなかったけれども、私の時代では知識であるものとは、元々人間が自力で手に入れられるものであったということです。
 時に賢者よ、我々は、我々が手に入れたものだけが我々が手に入れることのできるものの全てだと思うことは正しいことでしょうか。

ソクラテス
 もし、そう思うことが正しいならば、僕は空を飛ぶ知識が手に入れられるものではないと思うことが正しいということになるね。でも、君たちは手に入れてしまっているじゃないか。

青年
 自分たちが持っているものだけが、持ちうるものの全てではないということですよね?

ソクラテス
 そうでなければならないよ。

青年
 ある時徳を教えるものや徳を学ぶものがいないからといって、徳が知識ではないと結論するのはまちがいなのではないでしょうか。

ソクラテス
 その通りだ。

青年
 すると、依然として、徳は知識であり得るということが言えるようになります。
 振り出しに戻ってしまいました。徳は知識であると考えるべきなのでしょうか、それとも知識ではないものだと考えるべきなのでしょうか?

ソクラテス
 困ったね。結局僕らは、徳がなんであるかについては何も分からないということなのだろうか。

青年
 もし、仮定の上で話を進めることを認めていただけるならば、ここからさき行くことができるのですが。

ソクラテス
 まぁ、どうせ僕らはそれを生業にしている人たちとは違うんだ。だれかが僕らに文句を言うにしたって、仮定に仮定を重ねて精神の子を産んでもかまわないと思うよ。

青年
 では、徳とは知識のことであると仮定しましょう。
 先ほども聞きましたが、徳とは何についての知識なのでしょうか?

ソクラテス
 快についての、善についての、立派なことについての知識だといえるだろうね。

青年
 ところでその快とは、善とは、立派なこととは……いったい誰にとってなのでしょうか? 私にとって快なることが徳なのですか?

ソクラテス
 違うのかい?

青年
 では私にとって快であることをあなたがしたとしたら、あなたは徳のある人間であるということになりますね。

ソクラテス
 そういうことになるね。

青年
 あなたが徳のある人間であるのは、誰にとってでしょうか? 私にとってあなたは徳のある人間なのか、あなたにとってあなたが徳のある人間なのか、全てにとってあなたは徳のある人間なのか?

ソクラテス
 僕がしていることが快だと思う人々にとって徳のある人間なんだろうね。

青年
 では、全ての人があなたのしていることで快を感じることがあると思いますか?

ソクラテス
 あり得ない……とまでは言わない。けれども、まず間違いなくそんなことはないはずだ。

青年
 ということは、ある人にとって快であることがある人にとっては快でないことがあり得るわけですね。言いかえれば、ある人にとって徳であることが、ある人にとって徳でないことがあるわけです。善とか、立派なことと言う言葉でも同じです。

ソクラテス
 そういうことになるよ。

青年
 何が徳であるかは、人によるということになりませんか?

ソクラテス
 そうなるね。

青年
 人がそれぞれ別なものを持っている可能性があるというのだとしたら、人が何を持っているのかを知るためにはその人が持っているものを知る必要があるのではないですか?

ソクラテス
 もちろん。

青年
 では、我々は徳というものを知るためには、社会とか国家とか集団とかの大多数に認められるものを見ることによってではなく、その人自身が何を持っているのかを見極めることでしか、その人にとっての徳を知ることは出来ないと言うことです。

ソクラテス
 そういうことだね。

青年
 すると我々は、人間一般についての知識ではなく、個人についての知識によって徳を知ると言うことになります。
 賢者よ、私は個人でしょうか?

ソクラテス
 もちろんそうだと思う。君が個人でないならば、僕も個人ではないし、世の中には個人なんて存在しなくなる。

青年
 私という個人を知ることは、私という個人にとっての徳を知ることではないでしょうか?

ソクラテス
 そういうことだよ。

青年
 私という個人を知ることとは、私にとっては自分を知ることなのではないでしょうか?

ソクラテス
 もちろん、そうでないとおかしい。

青年
 自分を知ると言うことが、自分にとっての徳を知ることなのではないですか?

ソクラテス
 うん。

青年
 徳を知ったものが徳を行わないことはあり得ないのです。徳を行うとは、徳ですよね。

ソクラテス
 もちろんそうさ。

青年
 では、徳を知ることとは徳なのではないですか?

ソクラテス
 違いない。

青年
 自分を知ることが徳を知ることなのです。自分を知ることが徳であるといえるのではないでしょうか。

ソクラテス
 そういうほかにはないよ。

青年
 自分を知ることが徳であると分かりました。ところで古き賢者よ、自分とはなんだと考えればよろしいでしょうか?

ソクラテス
 僕に聞かれても困るさ。僕は何も知らないんだ。
 どうか、君が僕に教えてくれたまえ。

青年
 あはは……やっぱしそうきますか。
 ところで、自分が何者かであるとしたら、それは体か心のいずれかであろうとは思いませんか?

ソクラテス
 思うね。体でも心でもないものだとすると、僕にはとうてい思いもつかないよ。

青年
 では、どちらが自分だと思いますか?

ソクラテス
 確か、そんな話しもしたような気がするよ。さぁどうか、僕に思い出させてくれたまえ。プロタゴラスとの思いでも、メノンとの思いでも思い出させてくれたのだからね。

青年
 では、あなたとアルキビアデスの話しを、私が読んだ限りで。少々話し方が違うとしても、ご容赦下さい。
 何かを行使するものと、何かに行使されるものとは別なものだと思われませんか? たとえば、ハサミと、それを行使している手とは別なものだと思われますが。

ソクラテス
 うん、違うものだろうね。

青年
 ハサミで紙を切るとき、紙を切っているのは何者でしょうか? ハサミでしょうか? 手でしょうか?

ソクラテス
 ハサミで紙を切っていると言っているのだから、紙を切っているのはハサミだよ。

青年
 はい。では、紙を切ることが立派なことであるとした場合には、ハサミは立派なことをしていると言うことになりますね?

ソクラテス
 そうなるね。

青年
 ハサミは立派なことをしているのだから、善いことをしているのでもあり、徳のあることをしているのでもあるわけです。

ソクラテス
 そういうことになる。

青年
 紙を切っているのはハサミなのだから、手は何も立派なことはしていないと言うことですね?

ソクラテス
 うん、そうなるはずだ。

青年
 では、だれかが手でハサミをふるって人を傷つけたとしましょう。金品を強奪するために、人を傷つける人が徳のある人間だと思われますか?

ソクラテス
 僕は、そういう人間を徳のある人間だとは思わないね。

青年
 悪徳と呼びますか?

ソクラテス
 そう呼ぶね。

青年
 このとき人を傷つけたのは何者でしょうか? ハサミで人を傷つけたのだと言うときに。

ソクラテス
 さっきと同じ答え方をするならば、人を傷つけたのはハサミだということになる。

青年
 悪徳であるものはハサミであって手ではないのですね?

ソクラテス
 そうならなければならない。

青年
 だれかが傷ついたりしたときに、人間が裁かれたり非難されたりするのはなぜでしょうか? どうして、ハサミだとか剣だとか斧だとか毒だとかが裁かれるのではないのでしょうか?

ソクラテス
 それらは道具として用いられているだけだから、だとおもうよ。

青年
 人が人を裁いたり、非難したりするのは、その人が悪を行ったときであるとは思いませんか?

ソクラテス
 そのはずだね。

青年
 ところが、悪を行っているはずの当のものは裁かれず、人間が裁かれることになるわけです。
 これは、どちらなのでしょうか? 実際に人間が悪を行っているからなのか、それとも悪を裁こうという気が人々にはないということなのか。

ソクラテス
 人にとって悪であることを成したものを、裁こうとしているように思えるよ。

青年
 人々はそれが悪であると分かっているならば、悪であるものを裁こうとするはずですね。人々は何が悪を成したのかを知っていないと言うことでしょうか。

ソクラテス
 僕たちは、たいして考えもせずに答えを出せたよね。ハサミが人を傷つけたとき、傷つけたのはハサミである、と。この程度のことを、人々が理解できないとは思えない。何によってそれがそうされたのかと言うことについては、人々にも理解する力があると思う。

青年
 ハサミによって人が傷つけられたとしても、ハサミが悪を成したのではなく、人が悪を成したのだと人々が思うから、人はハサミを持っていた人間を裁くわけです。
 しかし、実際ハサミが人を傷つけたというのに、どうしてハサミではなく人間が悪を行ったと言うことになるのでしょうか。

ソクラテス
 うん、ぜひ君の考えを聞かせてもらいたい。

青年
 私には何も聞かせてくれないんですね。ま、仕方ないですが。
 思うに、行使されたものには、自由がないからではないでしょうか?

ソクラテス
 自由がないと、何をしても責められないと言うことかい?

青年
 そういうことになります。
 もしもだれかが、だれかから人を殺すように命じられていて、その人にはそれを拒絶する術がなかったとしたら、人はその人を悪人と呼ぶのではなく、その人に命令をした人間を悪人と呼ぶのではないでしょうか。

ソクラテス
 そういうこともあるね。でも、奴隷が奴隷として働くのであっても、だれかにとって不都合だった場合、一緒に殺されてしまうこともあるよ。

青年
 単純に、有害だからではないでしょうか。相手に悪徳がないと分かっていても、それが自分にとって有害ならばそれは拒絶しますし排除するものだと思われます。悪徳であるから、という理由でなしに。

ソクラテス
 有害であるものの影響とは、その人にとって苦しい結果を導くもののことだよね? ところで、苦しいものとは悪であると了解されていなかったかい?

青年
 そうでした。すると、その場合もその奴隷たちが奴隷として働くことが悪であると思っているから、一緒に始末してしまうと言うことになるのでしょうね。

ソクラテス
 そうでないといけないだろうね。でももしも、その奴隷がずっと同じ主人に付き従うのではなく、時と場合によっては新たな主人の下で奴隷として働くのであれば、きっと主人と運命を同じくはしないと思わないかい?

青年
 確かに。とくにその奴隷が優秀であればあるほど、自分のものにしたくなると思います。

ソクラテス
 では、こういう風には考えられないだろうか?
 奴隷が誰のものにでもなりうる場合には、その奴隷は裁かれないと。

青年
 というと、どういうことでしょうか?

ソクラテス
 ある奴隷が、常に人々が悪であると思われるような命令しか聞かないのだとしたら、命令者だけでなくその奴隷もまた人々は裁こうとするだろう。しかし、その奴隷がどんな人々の、どんな命令にでも従おうとするならば、人々はその奴隷を裁かないのではないだろうか。
 その奴隷を、人々にとって善なるものに役立てることが可能であるならば。

青年
 自分たちにとって、これから有益であり得るならば、過去の仕業を不問にするということですか?

ソクラテス
 だれかが君を剣で傷つけたとしよう。その剣はたいそうよい剣であるとしよう。君はその相手を捕らえ裁くことにした。しかし、剣も一緒に裁き、それを破壊してしまうだろうか?

青年
 むしろ、自分のものにしようと考えるのではないかと思いますが。そう思わない人間がいないとは言い切れないようにも思えます。

ソクラテス
 しかし、それはよい剣なのだ。君にとってね。
 ということはだよ、君はその剣を手に入れることでなにかしら快なるもの、立派なこと、美しいこと、徳なることを手に出来ると言うことでもある。すなわち、その剣を手に入れることは君にとって善なることなのだ。善を行わないものとは、すなわち善を知らないもののことではなかったかね?

青年
 そうです。

ソクラテス
 ということは、その剣を手に入れずに廃棄してしまうと言うことは、君はそれが善なるものであることを知らなかったと言うことではないのだろうか。

青年
 そうであるはずです。

ソクラテス
 よって、奴隷が裁かれるのは、それが善であるものでないと断じられた場合であるということにならないかね?

青年
 そうなるはずです。

ソクラテス
 裁くからには、悪だと思っているのだろうね。

青年
 はい。

ソクラテス
 悪だと思われたものが裁かれるのだから、裁かれなかったものは善であるか、少なくとも悪であると思われなかったに違いないのではないか。

青年
 そうだと思います。

ソクラテス
 すると人々は、自分にたちにとって有益であり得るような奴隷を悪だとは思わないと言うことでもある。
 ハサミは人々にとって有益であり得るだろうか?

青年
 当然、有益であり得ると思います。

ソクラテス
 剣は? 斧は?

青年
 有益であり得ると思います。

ソクラテス
 毒は、薬は?

青年
 人を殺そうと思っている人間にとって毒は有益であり、人を癒そうと思っている人間にとって薬は有益であると思われます。

ソクラテス
 人が何かの道具を用いるとして、それが自分にとって有益であると思われていないと言うことがあり得るだろうか?

青年
 それが有益でないと思っているなら、そもそもその道具を使うはずがありません。

ソクラテス
 使うはずのない者を作り出す者がいるかね?

青年
 いないと思います。

ソクラテス
 道具とは、全て使うためにつくられると言うことだね?

青年
 そうです。

ソクラテス
 道具を使うのは、それが有益であると思われているからだね?

青年
 そのはずです。

ソクラテス
 道具とは、全て有益であり得ると言うことだね?

青年
 そうなります。

ソクラテス
 しかし、ある人にとって有益であるものでも、ほかの人々にとってはそうでない場合もあるわけだ。そういう場合に、人々はその道具……奴隷、呼び方はどちらでもかまわないけど、それらをも裁くことがあると言っていたわけだよね。

青年
 はい。

ソクラテス
 でも、たいていの場合裁かれるのは道具ではなくて、人の方だ。この理由について考えていたのだった。
 思うに、道具とは用いないことも可能であるからではないだろうか?

青年
 たしかに、使用せずにいることも出来るはずです。

ソクラテス
 剣には君を傷つける能力が備わっている。けれども、剣自身はその能力を行使しようとはしない。だれかがその能力を引き出さない限り君を傷つけることは出来ないんだ。
 その上、剣は使い方次第では君にとって善なるものでもあり得る。だから君は君を剣で斬りつけた人間だけを裁き、剣を裁かないのではないのかな?

青年
 そうだと思われます。

ソクラテス
 道具は全てある人にとって有益であろうと思われて制作される。時にその有益さは、ある人々にとっては有害でもあり得るんだ。しかし、その有害さは、だれかが引き出さない限り発揮されることはない。剣がそこにあるだけでは、誰も傷つかないんだからね。それがあるだけならば悪をうけずにすんだ人から見れば、その悪を引き出した人間こそが自分にたいして悪を成したものであると考えるのは、当然のことだと思わないかい?

青年
 思われます。

ソクラテス
 してみると、道具が裁かれずに人が裁かれる理由とは、こうなるのではないか。
 道具は人がいない限り何もしない。道具が何かをするのは、人が何かをしたときだけである。その人が何もしなかったなら、誰も悪をうけなかったのだから、原因はその人にあるのだと。

青年
 そういうことかも知れません。

ソクラテス
 少し、不満があるようだね。何か、気に入らない帰結があったかい?

青年
 誰にも用いられずに、だれかに悪を行う道具や奴隷があったとしたら、それは裁かれるのでしょうか?

ソクラテス
 誰にも用いられない道具や奴隷があるとはなかなか思いがたいのだけど。

青年
 核兵器というものがあります。先ほど申し上げた、都市一つを廃墟に変えることの出来る武器です。この武器は、管理を怠ると放射能というものを漏らしまして、それが人々にとって致命的なほどに有害なのです。
 この有害さは、核兵器を行使した場合は最大限に発揮されますが、兵器を行使しなかった場合でも、取り扱いを間違えるだけで人々に悪を行います。これを、人々は裁くべきでしょうか?

ソクラテス
 君たちの時代には、何とも恐ろしいものがあることだね。まるで、そこに座っていびきをかくだけで草木を腐らせる悪魔ではないか。そんなものまであるとは驚きだが、それは本当に君たちが制作した道具なのかい?

青年
 道具であることにまちがいはありません。科学者によって、意図的に制作された武器なのですから。

ソクラテス
 道具であるならば、それは有益であり得ると言うことだね。

青年
 確かに。少なくとも、一部の者達は有益と思っていますし、そう思っていないものにとっても実際は有益であるのかも知れません。

ソクラテス
 実際に有益であるかどうかと言うのはこの際おいておこう。裁かれるものというのは、人が悪だと断じたものであると了解されているのだからね。

青年
 そうですね。

ソクラテス
 人が裁かれるのは、道具を人々にとって悪しき用い方で行使するからであるのだね。道具が裁かれないのは、道具自体が存在していることは人々にとって悪しきことを行わないからだね。

青年
 そうなりました。

ソクラテス
 この問題は、道具自体がもはや人の手を借りずに人々にとって悪を成す場合には、人々はその道具を裁くであろうかと言うことだね?

青年
 その通りです。

ソクラテス
 裁くというのは、究極的には破壊してしまうことではないのかい? 人間の場合には死刑と呼ぶけれども。

青年
 そうだと思います。

ソクラテス
 あるだけで人々にとって有害であるならば、人々はそれを破壊してしまおうと考えるのではないだろうか?

青年
 へたに壊すと、それこそ大惨事になりますけど……。

ソクラテス
 では、そうならないように破壊するか、大惨事を引き起こさないために厳重に管理……人間で言えば監禁することになるのではないだろうか。

青年
 そうなると思います。

ソクラテス
 管理というのは、その道具が悪を行えないように保管すると言うことではないのだろうか?

青年
 そのはずです。

ソクラテス
 道具を善のために使えるならば、人々は人間を裁いて道具を手に入れるだろうし、道具が使用しないことによって悪を行わないものであるならば、人々はそれを使用しないことにするだろうと了解されたね。

青年
 はい。

ソクラテス
 使用しないことにすると言うのは、使用できないことにすると言うのと違うのだろうか? 人々は悪しき人から取り上げたその道具を、誰でも取り扱えるようなところに放置しておくだろうか?

青年
 一部の人間しか取り扱えないようなところに保管すると思われます。

ソクラテス
 一部の人間とは、その道具で悪を行わないと思われているような人々のことだろうね。

青年
 そうです。

ソクラテス
 すると、それは道具を監禁することであると思われるが、どうだろう。

青年
 人間で言えば、監禁している状態でしょうね。

ソクラテス
 となると、一度悪を行い、次に善を行う助けになりそうにないものについては、人々はそれを監禁するという形で裁いているように思われはしないか。

青年
 そのように思われます。

ソクラテス
 裁かれずにいるのは善なるものか、過去に悪を行っていないものなのではないか。

青年
 そのようです。

ソクラテス
 人々にとって善なるものは裁かれず、用いられない限り悪を行わないようなものは誰にも用いられないようなところに押し込められ、用いられずとも悪を行うようなものは破壊されるか、やはりこれも監禁される。
 人々は確かに、行使しているものと行使されているものとの両方を裁いているように思われないか。

青年
 思われます。

ソクラテス
 行使している、されているに関わらず?

青年
 関わってはいないと思います。ただ、刑の重さというものに違いが出ているようには思われますが。

ソクラテス
 そうだね。剣を用いたものは殺人の罪によって死刑になるかも知れない。だが、剣は場合によっては所有者だけが変わって無罪放免。裁かれる場合でも、せいぜい監禁されるだけなのだから。

青年
 その差は何によって生じているのでしょうか?

ソクラテス
 君は、死刑が禁固刑よりも重い刑だと思うかね?

青年
 思います。

ソクラテス
 人のお菓子を盗んだものが死刑になり、町を焼き払ったものが禁固刑になるというのはおかしな話しだとは思わないかね?

青年
 思います。

ソクラテス
 お菓子を盗むことよりも、町を焼き払うことの方が大きな悪だからではないかね?

青年
 そうです。

ソクラテス
 より大きな悪を犯したものには、より重い刑が科せられるべきだと思うね?

青年
 思います。

ソクラテス
 より重い刑を科せられているものとは、より大きな悪を行ったと思われていると言うことだ。

青年
 そのはずです。

ソクラテス
 剣を行使した人間が死刑で、剣が禁固刑であるとき、より大きな悪を行ったと思われているのは、人間の方だね?

青年
 そうなります。

ソクラテス
 人々は行使したものの方が行使されたものよりも大きな悪を行ったと見なしていることではないのか?

青年
 そうだと思います。

ソクラテス
 どうやら、行使したものとされたものとの関係は、より大きいとか、より小さいといった量的なものらしいね。

青年
 そのようです。

ソクラテス
 全か無かというものではないわけだ。
 当然こうなるのではないか。剣を行使した手があるとして、その手を行使した存在があるならば、それは手よりも大きな悪を行ったと思われるのではないか。

青年
 そのはずです。

ソクラテス
 さらにそれを行使した存在があったら、それはさらにより大きな悪であると思われる。そして、もっとも大きな悪とは、もはや何者にも行使されていないもの、そしてある事件を起こすために必要な条件を全て行使したものと言うことになるのではないか?

青年
 そうなります。

ソクラテス
 何者にも行使されていないもの。全てを行使するものとはなんだろうか?

青年
 お答えしかねます。

ソクラテス
 むしろ、これこそが君の言った、自由ではないのだろうか?

青年
 ……そのように思うこともできます。

ソクラテス
 君は自由という言葉をどのような意味で使っているのだろうか? 何者にも操られない、全てを自らによって決定する存在のことを自由と呼ぶのではないのかい?

青年
 たしかに、それを、自由と呼んでいます。

ソクラテス
 何者にも操られないとは、何者にも行使されないと言うことではないのかい?

青年
 そういうことです。

ソクラテス
 全てを自ら決定するとは、全てを行使すると言うことになるのとは違うのだろうか?

青年
 ……そういうことになります。

ソクラテス
 では、まさしく、最大の悪を行うものとは、自由に他ならないのではないか?

青年
 同意するのは気が引けますが、反論のしようはありません。

ソクラテス
 反論なんていい方はおかしいさ。これは、君自身の結論なんだ。僕は君が結論を出すのを手伝うだけのはずだろ? 君は君自身に反対するなんてことが出来ると思うのかい?

青年
 自分の考えに反対するのは、不可能なことです。

ソクラテス
 うん。君はただ、考えを新たに出来るかどうかというだけで、今ある考えに反対することなんて出来ないんだ。だから、反論をしようとするのはおかしいことなんだよ。
 ところで僕たちは、悪について延々と語ってきたね。悪徳をもっとも大きく行うものが自由であることを突き止めたわけだ。では逆に、今度は徳を……善を行うものとはなんであるかも考えるべきだとは思われないだろうか。

青年
 考えてみるべきでしょう。

ソクラテス
 君が病気の場合……あるいは君の家族や誰でも、親しい相手でありさえすればいい。患者によい薬を投与してくれた医者に、君は感謝しないだろうか?

青年
 感謝します。

ソクラテス
 君が感謝するというのは、君にとって医者が善なることをした人間であるからだね?

青年
 もちろんです。

ソクラテス
 君はその医者を徳のある人間だと思うわけだ。君はその薬には感謝しないのだろうか? その薬が善いものであったということを認めないのだろうか?

青年
 いえ、薬が善いものであったことも認めます。

ソクラテス
 では君は、薬が善なるものであったと思うわけだ。

青年
 はい。

ソクラテス
 君は、医者か薬かどっちを善なるものだと思うんだい?

青年
 両方、と答えてはいけないのでしょうか。

ソクラテス
 大いに結構。むしろ、そう答えるべきだと思われるからね。
 どちらがより善なるものであるかと聞かれたならば、どう答えるかね? 同じくらいに、というかね? それとも、差を付けるかね?

青年
 私としては、医者が薬よりもより善なるものであったと思われます。

ソクラテス
 それはなぜ?

青年
 薬はあるだけでは私には分かりませんし、病は癒えません。それが病を癒すものであると見抜き、またそれを投与してくれたものの方がより私にとってはよいものであると思われます。

ソクラテス
 医者の方がより多くのことをなしたと言うことかい?

青年
 多くのこと……というのかは分かりませんが、薬はそれ自体はなんの働きもしません。医者は、それをどう扱えばいいのかを心得ていて、事実善いやり方で扱ったわけです。

ソクラテス
 医者は薬を行使したのであって、薬は医者に行使されたと言うことかい?

青年
 そういうことだと思います。

ソクラテス
 その医者はただのど素人で、先生なりより知識のある医者なりの言うとおりに薬を調合し、患者に投与しただけなのだとしたら、君は誰に感謝するんだい?

青年
 おそらく、薬を投与した医者にそのような知識を与えた人間に感謝するものと思われます。

ソクラテス
 やっぱり、行使したものの方が、行使されたものよりも善なるものだと言いたいのだね? そして、行使されているものだからと言って、君はそれを善なるものではないと思うわけでもないのだろう?

青年
 はい。程度の差こそあれ、私にとって善なるものであることに間違いはないと思います。

ソクラテス
 善についても、より大きいとか、より小さいとか言うような量的な差があるわけだ。善か無かという違いではないことになる。行使しているものを行使しているものがいるならば、その方がより善なるものであるとも了解された。これをずっとつきつめていき、何者にも行使されずに、善を行うために必要な条件を全て行使するような存在があったとしたら、それがもっとも善なるものであるといえるのではないだろうか?

青年
 そういえると思います。

ソクラテス
 その名は?

青年
 自由と、答えるほかはありません。

ソクラテス
 自由とは、もっとも大きな悪を行うものであるのではなかっただろうか?

青年
 そうでした。

ソクラテス
 しかし今の帰結によって、自由はもっとも大きな善を行うものであるとも言われてしまった。どういうことだと思うかね?

青年
 悪を行うものであって、善を行うものではないか。
 善を行うものであって、悪を行うものではないか。
 善を行うものでもあり、悪を行うものでもあるか。
 この三つの内どれかが、自由の本性だと思われます。

ソクラテス
 そうだろうね。では、その三つの内のどれが本性だと、君には思われるかね?

青年
 善を行うものでもあり、悪を行うものでもあるのが自由の本性だと思われます。

ソクラテス
 少なくとも、悪を行うものであることと、善を行うものであることはすでに証明済みだ。そう答えるのがいちばん無難なように見えるね。
 悪を行うものでもあり、善を行うものでもあり得ると言うことがあり得るのかどうかを確認しなくてはなるまい。

青年
 そうです。

ソクラテス
 善を行うものとは、善を知っているもののことではなかったかね?

青年
 そう了解されました。

ソクラテス
 悪を行うものとは、善を知っていないもののことではなかっただろろうか?

青年
 そうでした。

ソクラテス
 知っていることとは知のあることであり、知っていないこととは無知のことだね?

青年
 そうです。

ソクラテス
 知のあるものが、同時に無知なものであることがあり得るだろうか?

青年
 一つの事柄にたいしてですか?

ソクラテス
 そう。たとえば計量術にたいして知のあるものが、同時に計量術にたいして無知であることがあり得るかと言うことだ。

青年
 あり得ないと思います。

ソクラテス
 すると、知のあるものが同時に無知であり得るとは、違う分野に対しての知識に限定されるのではないか?

青年
 確かに。計量術について知のあるものが、体育術について無知であることならば、大いにあり得ます。

ソクラテス
 善について知があるのならば善を行うものであり、善について知がないのならば悪を行うものであろうというわけだ。そして、自由とは善と悪を両方行うものではないだろうかといわれている。しかし、自由が善を知っているなら悪は行わないはずだし、善を知っていないなら善を行えないのではないだろうか?

青年
 そのはずですね。

ソクラテス
 どうやら我々は、思い違いをしていたように思われはしまいか?

青年
 なぜです?

ソクラテス
 我々は今まで、人が何を裁いたり何に感謝したりするかということを元に、善と悪の源を探してきた。けれども、それは人がどう呼ぶかと言うことにすぎなかったのではないか?
 今結論された自由とは、まるで温度とか長さというのと変わりがないように思われるのだ。
 ある人にとって同じものを同じ時に熱いと言い、また冷たいと言うことがあるだろうか?

青年
 言わないはずです。

ソクラテス
 ある人にとって暑いものが、別な人にとって冷たいもの……あるいは熱くないものであることは考えられないだろうか?

青年
 そういうことはあるはずです。

ソクラテス
 ある人にとって長いものが、別な人にとって短いものであることもあるのではないか?

青年
 あるでしょうね。

ソクラテス
 その長さが、計測上は同じ長さであったとしても?

青年
 人の感想はそれぞれだと思います。ほかの山より小さいからといってある山を小さいと呼ぶものもいれば、自分の家より大きいからと言ってその山を大きいと呼ぶものもいるはずです。

ソクラテス
 ある人が自由によって何かをなしたとしても、そのことにたいして一部の人は大きな善であるといい、もう片方の人たちは大きな悪と呼ぶこともあるわけだね?

青年
 あると思われます。

ソクラテス
 我々はどうやら、一般的な人々が呼ぶところの善悪を見ていたにすぎないようだ。
 ところで、先ほど了解された善とはなんだっただろうか? 万人に共通のものであるはずだと仮定されたのだったろうか?

青年
 いえ。個人ごとに違う快についての知識を持つことが徳であると前提されていました。

ソクラテス
 自分にとっての快がなんであるかを知ることが徳であるということだったね。

青年
 はい。

ソクラテス
 自分にとっての快を知ることとは自分を知ることであった。
 自分を知ることとは、自分にとっての快を知ることなのだから、自分を知ったものは快を行うはずである。
 快を行うとは快であるのだから、徳である。
 自分を知ることは徳である。
 こう考えられまいか?
 それを知ることによって徳を行うようなものが、自分なのだと。

青年
 当然、そうあるはずです。

ソクラテス
 何が自分だと考えるべきだろうか?
 先ほどは、体か? 心か? と問いかけている内に、道を誤ったのだった。

青年
 確かに、そうです。

ソクラテス
 同じ問いかけを行って、同じ道に踏み込んでしまうのを避けよう。
 今度はどうだろう? 先ほど、人が呼ぶところの徳と悪徳のもっとも大きな源であるといわれていた、自由がそれであるかについて考えてみては。

青年
 かまいません。

ソクラテス
 自由が徳であると仮定した場合、どうなるだろうか。
 自由が徳であるとするならば、自由とは自分を知ることでなければならないのではないか?

青年
 そうなります。

ソクラテス
 自由であることによって、自分を知ることが出来ないのであれば、自由によって徳を行えないことになるね? 徳を行えないならば、自由は徳ではないわけだから、仮定は間違っていたと言えるはずだ。

青年
 その通りです。

ソクラテス
 では、自由は自分を知ることが出来るだろうか?
 自由とはなんだっただろうか?

青年
 何者にも操られず、自らによって決定することだったと思われます。

ソクラテス
 うん。それが自由だと言われていたわけだ。
 何者にも操られないものとは、常に自らのなすべきことを知っているのだろうか? 自らによって決定するものとは、自らがなすべきことを知って決定しているのだろうか?

青年
 どうでしょう。そうとは限らないように思われますが。

ソクラテス
 誰にも操られてはいないけれども、自分が何をするべきかを知ってはいない者がいる? 自分で決めたことだけれども、自分がなすべきことを心得ていない者がいる?

青年
 全ての人に命令することのできる王様であったとしても、何もかもがうまくいくとは限らないと思われます。さんざん横暴の限りを尽くしたあと、自滅するということもあります。
 自分で決めると言うことと、自分がなすべきことについて知があるということは一緒ではないと思われますが。

ソクラテス
 うん、そのようだね。すると、自由であるからと言って必ずしも徳をなさないと言うことは、自由であることは自分を知ることではないのではないだろうか?

青年
 そう、結論されます。

ソクラテス
 自由であることと自由を知ることとは同じことだろうか?

青年
 いえ、同じではないと思われます。蟻が蟻であることと、蟻が何者であるかを知ることとは違うことのように思われます。事実、私が蟻を何者であるか知ったからと言って、私は蟻であるわけではないと思われます。

ソクラテス
 自由であることは自分を知ることではないが、自由を知ることは自分を知ることである可能性は残っているわけだね。

青年
 そうですね。

ソクラテス
 しかし、我々は先ほど、自由をなんだと呼んでいただろうか。もう一度聞かせてくれないか?

青年
 何者にも操られず、自らによって決定することです。

ソクラテス
 自由とは、それのことではないのだろうか?

青年
 うーん……これのことだと思われます。これのことでない場合には、またはじめから議論をやり直さないといけませんね。

ソクラテス
 僕としても、その定義で正しいように思われるのだが。
 事実その定義が正しいのだとすると、我々は今、「自由とは、何者にも操られず、自らによって決定することである」と言ったわけだ。すなわち、自由とはそういうものであると知っていると言うことなのではないだろうか?

青年
 間違っている可能性が全くないとは言いませんが、私は知っていると思っています。

ソクラテス
 事実それで自由を知っているものだとしよう。しかし、我々は自由がなんであるかを知ったからと言って、自分について何かを知ったわけではない。自由を知ることも、自分を知ることとは違うのではないだろうか?

青年
 そのようですね。

ソクラテス
 となると、自由を知ることが自分を知ることではないと言うことは、自由とは自分ではないということになるね。

青年
 はい。

ソクラテス
 さあ、また探さなければならない。
 自由は自分ではなかったし、行使する者とされる者の間には質的な違いではなく、量的な違いしかないことも明らかになってしまった。
 いったい、何が自分なのだ。

青年
 自分にとっての善ではないでしょうか?

ソクラテス
 自分にとっての善が、自分だということかい? 自分にとっての善を知ることが自分を知ることだと言えると思うかい?

青年
 善を知れば、善を行うと了解されています。それを知ることで善を行うようなものが自分であるといわれたのですから、善を知ることが自分を知ることであるというのは間違いではないのではないでしょうか。

ソクラテス
 間違ってはいないようだ。
 だが、善は人によるのだった。個人の善を知るためには、個人を知らなければならないのだったね。その個人はなんであるかと聞いているのに、個人の善を知ることがと言うのは間違っていないかね?

青年
 確かに……。

ソクラテス
 こうならば言えはしないか。
 個人にとっての善を生じさせているものがあったとしたら、それが自分であると。

青年
 何が自分にとっての善であるかと言うことを決定しているものが自分だと言うことですか?

ソクラテス
 それを知ることは、自分の善を知ることにはならないかね?

青年
 少し、待って下さい。

ソクラテス
 時間はたくさんあるからね。今日の僕は、毒杯を待たせている身分ではないのだし。
 でも、君が考えるのを楽にしてあげられるよう、手伝いくらいはするべきだろうね。
 船を造る人間のことを全て知ったとしたら、その人間が造る船のことを知ることが出来ないだろうか?

青年
 全く分からないことはないと思います。ただ、全てが予測できるかどうかまでは……。

ソクラテス
 では、物語を書く人間のことを知ったとしても、その人の書く物語の全部を知ることは出来ないと思うね?

青年
 少なくとも、その人が同じような意味を持つ語のうち、どれを使うかまでは分からないような気がします。

ソクラテス
 僕は、その人の全てを知ったと仮定して言ってるんだけど。

青年
 全てというと、何から何までですね。

ソクラテス
 もちろんそうさ。物書きがいつどこでどんな物語を、どういう風な形でどういう語を用いて書くかが分からないと言うことは、その物書きの全ては知っていないのではないか?
 もしも、僕がこれから「AはBである」と言うような文を書くと言うことを君が知っていたならば、君は僕が「AはBである」と書くことを知っていると言えるだろうね?

青年
 もちろんです。

ソクラテス
 僕がこれからなんと書くかが君に分からないとき、君は僕が「AはBである」と書こうとしている人間であることを知らないわけだ?

青年
 そうです。

ソクラテス
 僕がこれから何を書こうとしているかを知らない君は、僕のことを全て知っている人間であるといえるのだろうか?

青年
 言えません。

ソクラテス
 君が僕のことを全て知っているのなら、僕がこれから書くすべてのことについても知っていなければならないのではないか?

青年
 そう思われます。

ソクラテス
 では、善を作り出している者のことを全て知ることとは、それが作り出している善の全てを知ることでもあるわけだ?

青年
 その通りだと思います。

ソクラテス
 善を知ることとは善であることだった。善を作り出している者を知ることとは善を知ることであった。善を作り出している者を知ることとは、善ではないだろうか?

青年
 善だと思われます。

ソクラテス
 それを知ることで善になるようなもの、それが自分であるのだったね。すると自分とはなんだね?

青年
 善を作り出している者のことです。

ソクラテス
 うん。
 善を作り出している者こそが、自分であるわけだ。それが体であるか、心であるかと問うたならば、君はどう答えるね?

青年
 二者択一でなければならないのであれば、心であるとお答えします。

ソクラテス
 すると、君は体でも心でもないものが自分であるかもしれないと言うわけだ。それはなんだい?

青年
 脳内化学反応であると、お答えします。

ソクラテス
 脳? 僕たちの頭の中にあるもののことだね? あれが僕たちの善を作り出していると君は言うのだろうか?

青年
 その通りです。我々が何を快と思うか、何を苦と思うかは、脳での反応によります。ドーパミンは脳に快を感じさせると言われています……ええと、あなたの時代には、そんな言葉はありませんでしたね。

ソクラテス
 うん、なかった。君たちの時代では、どうやら僕たちの体がいろいろと解明されているらしい。それで、そのドーパミンはどうすることによって脳に快を感じさせるんだい?

青年
 不明です。私はそこまでは存じません。現代の科学者たちも、研究中なのではないでしょうか。

ソクラテス
 そうか。でもすると、本当に脳が快を生み出していると言うことが言えるのだろうか。

青年
 ここで、私が知っている限りの脳生理学を述べてもかまわないのですが、それはあまり重要なことだとは思われません。現代の科学者たちがそのように言っている以上、我々は彼らが脳に関する正しい知を持っていると思うしかないと思われます。

ソクラテス
 確かに、その科学者たちは、脳については僕たちよりも知があるのだろうからね。では、実際に脳が快を産んでいるかどうかと言うことの論議はさておこう。最も多くの知を持っているものが正しいのだとは言わないが、僕たちは彼らよりも少ない知しか持っていないのだから、僕たちの知よりも彼らの知を優先する方がいいだろう。たとえば、彼らが間違っている可能性が存在するにしてもだ。

青年
 同感です。結論についてあるいは彼らは間違っているかも知れませんが、私達はできる限り正しい推論を行わなければならないと思います。

ソクラテス
 脳が私達の快を生じさせているとするならば、脳が自分であると言うことになるのではないか?

青年
 そうなると思われます。

ソクラテス
 脳を知ることが徳であるという帰結になるね?

青年
 まさしくそうなります。

ソクラテス
 徳に、大小の量的な差異があったとしたら、より大きな徳を行うものがより大きな自分だと言いはしないかね?

青年
 最も大きな徳を行うものが、最も大きな自分であると言うことですか?

ソクラテス
 そういうこと。

青年
 自分はたくさんいるのですか?

ソクラテス
 いや、むしろこうではないだろうか。
 とてもとても大きな山がある。その山のどこを見ても、どの部分を指しても、これは山の一部であるといえるだろう。だが、木一本を指したときに山の一部であるというのと、町一つはいりそうなくらいの広さを指してこれが山の一部であるというのとでは、どちらがより山そのものを指していると思うかい?
 山というのは、木や草や動物たちが全ていて、それら全部を指し示したときにその山そのものであるといえるようになるのではないだろうか?

青年
 そう思われます。

ソクラテス
 自分の小さな徳を指し示して、これが徳の全てであるというのは間違っているし、それよりもいくらか大きな徳を指し示してこれが徳であるというのも間違っている。どちらも、これが徳の一部である、と言わねばならないのではないか?

青年
 そう思います。

ソクラテス
 徳とは、自分を知ることであった。自分を知ることに大小の量的差があるならば、最もよく自分を知ることが徳であると言うべきではないかね?

青年
 はい。最もよく自分を知っているのでなく自分を知っているものは、自分の一部を知っているのだと言うべきだと思われます。

ソクラテス
 最もよく自分を知ったものは、最もよく徳を行うものであると思われまいか?

青年
 思われます。

ソクラテス
 すると自分とは、それを知ることで最もよく徳を行うもののことであるといえるわけだね?

青年
 その通りです。

ソクラテス
 それでは、脳を知ることが最もよく徳を行うことであるかを確かめねばなるまいね。

青年
 はい。

ソクラテス
 脳が我々の善を作り出しているのだった。だから、我々は脳を知ることが自分を知ることであると言ったわけだが、脳を作り出している者があるのだとしたら、それを全て知ることは脳を知ることにつながりはしまいか。

青年
 先ほどの議論を再び行えば、当然そのような結論にいたります。

ソクラテス
 さらに、脳をつくっているものを作り出している存在があったら、それを知ることは脳をつくっているものを知ることになるのではないか?

青年
 当然、そうあるはずです。

ソクラテス
 これをどこまでもどこまでも行くと、どこへ行き着くのだろうか?

青年
 脳を作り出すことのできるものの全てを知り尽くすところへ行き着くと思います。

ソクラテス
 それはなんだね?

青年
 ……非常に難しい問いです。

ソクラテス
 少なくとも言えることはないかね?

青年
 何者にもつくられていない存在、といえるかも知れません。

ソクラテス
 まさしく。誰にもつくられていないものとは、いったいなんだろうか?

青年
 少々……目が回ってきました。宇宙の原理……とでも申し上げたら、回答になりましょうか。

ソクラテス
 宇宙の原理とは、何者にもつくられていないと言うことかね?

青年
 そう思います。

ソクラテス
 では確認しよう。
 もしも宇宙の原理を作り出せる存在があるとしたら、それは何者だろうか?

青年
 仮にそういう存在があるのだとしたら、宇宙の創造者以外には考えられません。

ソクラテス
 宇宙の創造者であれば、宇宙の原理を作り出せるかもしれないと言うことだね?

青年
 そう思われます。

ソクラテス
 宇宙の創造者が宇宙の原理を作り出す存在であると仮定しようではないか。そして、宇宙の創造者とは何者にもつくられていない存在であると。
 宇宙の創造者は宇宙の原理を作り出せるのだったね。つまり、宇宙の創造者は、自分の都合のよいように宇宙の原理を変えられるはずだね?

青年
 そのはずです。

ソクラテス
 だれかが何かをなすことが出来たとしたら、その人はそれをなすことができるものだったはずではないか?

青年
 できるはずのものでないなら、出来ないはずです。

ソクラテス
 ではここで、宇宙の創造者様にお願いするとしよう。「どうか、それを行うことが不可能であるものに、それを行わせて下さい」とね。
 宇宙の創造者様は、どうお答え下さるだろうか?

青年
 「今それを行えないものを、行うことができるようにすることならばおやすいご用だ。あるいは、今の原理では出来ないから、別な原理に作り替えることでそれが可能であるようにすることもできる」、とお答えいただけそうです。

ソクラテス
 不可能でない状態にすることによってならば、それを可能にして下さるというわけだね。しかし僕たちのお願い事は、「不可能なものに、それを行わせてほしい」と言うことではなかったか。

青年
 はい。

ソクラテス
 宇宙の創造者の力によってしても、不可能であることは不可能であるままであり、それを可能にしなければ何事もなせないと言うことではないだろうか?

青年
 そのようです。

ソクラテス
 では今度は、こういうお願いもしてみようではないか。
 「どうか宇宙の創造者様よ。あなたは宇宙の原理に縛られずに、宇宙の原理を作り替えて下さい」と。

青年
 宇宙の原理に縛られずにと言うのは、宇宙の原理を用いずに、と言うことですか?

ソクラテス
 その通り。

青年
 宇宙の原理を使わずに、宇宙の原理を変えて見せてくれ、と言うわけですね。創造者が宇宙の原理すら誕生させられるならば、確かにやってもらわねばなりません。

ソクラテス
 どうかね。宇宙の創造者様は、どうお答えあるものだろう?

青年
 きっとこう答えることでしょう。
 「私が原理を変えたとしたならば、それは私が原理を変えることが可能だったからである。それが可能であるのは、今ある原理において可能であるというのである。この原理を用いずに、原理を変えることは、いかようにも出来はしない」と。

ソクラテス
 なるほど。謙虚な創造者様だね。自らの限界を心得てなさる。
 すると青年よ、宇宙の創造者ですら宇宙の原理を変えることができないのではないかね?

青年
 はい。まさしくそのように思われます。

ソクラテス
 宇宙の創造者ですら変えられない宇宙の原理を、いったい何者が変えられると言うのだろうか?

青年
 私には、全く分かりません。

ソクラテス
 むしろ、それは誰によっても変えることのできないものなのではないか?

青年
 そう思います。

ソクラテス
 誰も変えられない、と言うことは、誰によっても作り出されていないと言うことではないかね? 何者かがつくっているのならば、その何者かによって変化をうけて当然だと思うが。

青年
 はい。

ソクラテス
 善は脳によってつくられていた。脳もきっと何かにつくられている。それもまた何か……結局のところ、宇宙の原理によって。
 脳が善をつくっているのだとしたら、脳がつくっている善とは脳によって行使されているものだと思われないかね?

青年
 明らかに、行使されているものだと思われます。

ソクラテス
 脳の次第によって、その善が変化するのだからね。
 ところで君は、脳が作り出す善をなんだと読んでいただろうか? どうも、善について話しているときに、別な意味を持つ善がでてきてしまうと、混乱するのだが。

青年
 脳内化学反応と呼んでいました。

ソクラテス
 脳内化学反応……脳反応と呼んでもいいかな。脳とは、これを行使しているといってもいいものかな?

青年
 よろしいと思います。

ソクラテス
 脳が行使する脳反応に、その人にとっての善があるわけだ?

青年
 その人がなにを快と思うかは、脳反応次第ですので。そう言うことができると思います。

ソクラテス
 ありがとう。では、この言葉を使わせてもらおう。
 さて、何かが何かを行使するのは、行使する者にとってそれが有益であるからではなかっただろうか? 少なくとも、有益であると思われているから行使するのではなかっただろうか?

青年
 そうでした。

ソクラテス
 脳が脳反応を行使するのは、脳にとってその反応を行使することが有益だからではないだろうか?

青年
 そうなりますね。

ソクラテス
 すると当然、脳を行使しているものとは、脳を行使することが有益なものであるに違いないだろうね?

青年
 はい。

ソクラテス
 では聞くけど、脳を行使しているものにとって、脳反応は有益なものだろうか?
 少し分かりづらいかも知れない。たとえ話をしよう。国王が将軍を行使するのは、将軍が国王にとって有益だからだろうね? 将軍が兵士を用いるのは、兵士が将軍にとって有益だからだろうね? 兵士が剣を用いるのは、剣が兵士にとって有益だからだろうね?

青年
 そう、思われます。

ソクラテス
 そのとき、剣は国王にとって有益だと思うかい?

青年
 有益であると思われます。

ソクラテス
 有益であるものは、善であるものだね?

青年
 その通りです。

ソクラテス
 国王にとって、兵士は善であるものと言うことになる。

青年
 すると、脳反応にとって快であることは、脳を作り出すことに関係する全てのものにとっても快であると言うことになるのでしょうか?

ソクラテス
 ところが、そうでもないようだ。
 もし、将軍が国王によって行使されていることよりも、兵士を行使して王に反旗を翻し、その座を奪うことの方が快であると思われたとしたら、将軍は兵を王に向けるのではないかね?

青年
 そうなります。

ソクラテス
 兵を向けられた王にとって、兵が善なるものであることはあり得るだろうか?

青年
 そんなはずはありません。

ソクラテス
 王が行使したものによって行使されている兵士が、王にとって悪であることもあるというわけだ。

青年
 はい。そうなります。

ソクラテス
 なぜこんなことが起きうるのか?

青年
 王が、その将軍に兵士を与えれば、自らに悪をなすということを知らなかったからだと思われます。

ソクラテス
 つまり、将軍のことを知らなかったからと言うわけだ。それはつまり、将軍について無知であったということに他ならないのではないか?

青年
 他なりません。

ソクラテス
 国王とは行使するものであり、将軍とは行使されるものであったね。すると、行使するものが道具について無知である場合、行使するものにとって有害であることもあり得るというわけだ。

青年
 そういうことになります。

ソクラテス
 脳を作り出しているものが、脳について無知である場合、脳を作り出しているものにとって脳が有害であることもあり得るということにならないか?

青年
 あり得ます。

ソクラテス
 必ずしも、脳反応にとっての快が、脳を作り出すことに関係する全てのものにとって快であるとは限らないということになる。

青年
 知がない限り、そういうことになり得ます。

ソクラテス
 ところで聞かねばならないが、知とは何によってつくられていると君たちの時代の科学者はいっているのかね?

青年
 脳によって、と言われています。

ソクラテス
 すると、脳が知を作り出すまで、この世界には知が存在しないのではないか?

青年
 まさしく。

ソクラテス
 脳を作り出したものにも知はないし、脳にも知がないのだね?

青年
 そうです。

ソクラテス
 脳をつくりだしたもの以前のものにも、知なんてものはあるはずがないね?

青年
 あるはずがありません。

ソクラテス
 しかるに、有益であることを行えるものとは、脳よりも後に誕生したものだけだと言うことになるのではないか?

青年
 はい。そうならざるを得ません。

ソクラテス
 脳をつくったものや、それをつくったもの、さらにはそれをという風にいって、何か善なるものが見つかるであろうか?

青年
 何一つ発見することは出来ないと思われます。

ソクラテス
 うん。善とは、脳を持つものしか行えないものであるということだね。さて僕たちは、知のあるものを知ることによって、善を行うようになるのだろうか? それとも、知のないものを知ることによって善を行うことになるのだろうか?
 先ほどはこう了解された。自分を知ることとは、脳を知ることであると。ところが脳とは知のないもののことであったわけだね?

青年
 はい。どうやら、知のあるものを知らなければ善を行えないというわけでもなさそうです。我々にとって大事なのは、何が善であるかを知ることだけですので。

ソクラテス
 しかしだね、脳は知のないものであるからして、脳反応にとっての快とかいうものは、もしかしたら脳にとって有害であり得るのではないだろうか。
 脳にとって有害であり得るということは、自分にとって有害であり得るということにならないか?

青年
 そういうことになりますね。

ソクラテス
 脳反応にとっての善を知るためには、脳を知ることが必要だといわれていたわけだね。ところが脳反応が、脳そのものにとって有害ですらあり得るというのであれば、脳を知ることは自分にとっての善を知ることにはならないのではないだろうか?

青年
 どうやら、そのようです。

ソクラテス
 脳を知れば、脳反応を知ることができるだろう。だが、脳反応の善が脳にとって善であるかどうかは別な問題だというわけだね?

青年
 そういうことでしょうね。

ソクラテス
 自分は何者だっただろうか?
 自分が脳であるならば、脳反応を知ったとしても、脳にとっての善を知っていることにはならない。
 自分が脳反応の方だったらどうなるだろう。自分を知ることとは、脳反応を知ることだろうね。

青年
 はい。

ソクラテス
 脳反応を知るためには、脳を知ればよいはずだと言われていたのではなかったかね?

青年
 そうでした。

ソクラテス
 脳を知れば、脳反応にとっての善を行えるわけだね。ところで、それを知ることによって善を行うようになるものを自分と呼ぶと前提されていたわけだ。
 脳を知ることが、自分を知ることである。この帰結に間違いはないと思われないか?

青年
 その点に、間違いはないと思われます。

ソクラテス
 だが、その善とは、脳にとっての善であるかどうかは不明であった。

青年
 はい。

ソクラテス
 自分にとっての善を知ることとは、自分を知ることであった。自分を知ったならば、自分にとっての善も知っているはずではないか?

青年
 知っているはずだと思います。

ソクラテス
 脳を知っても、脳にとっての善を行うかどうかは分からない。脳反応にとっての善を行えるようになるだけである。
 これは一つ、先へどんどん進んでみるべきだね。僕たちは、脳の作り出したものを知るために、脳を知ってみるべきだろうと言いながら、脳を知るためには脳をつくったものを知ってみるべきであろうと言う話を進めてこなかった。
 脳をつくったものを知れば、脳を知ることができると同意されたね?

青年
 同意されました。

ソクラテス
 脳をつくったものとは、脳の行使者でもあるはずだね?

青年
 ええ。今までの話しからして、行使者であると考えるべきでしょう。

ソクラテス
 脳にとっての善は、脳の行使者にとっても善であるとは言えないんだったよね。

青年
 言えません。

ソクラテス
 仮に、脳の行使者を自分であるといったらどうなるだろう?

青年
 脳の行使者を知ることが徳であると結論されるはずです。しかし、脳の行使者を知ることによって知られる脳の善は、脳の行使者にとっての善とは食い違う可能性を持っています。

ソクラテス
 その通りだね。脳の行使者を行使しているもので考えたら?

青年
 全く、同じようになると思います。

ソクラテス
 原因は?

青年
 何かを知るためには、その何かを行使しているものを知ることが必要であるという考え方だと思われます。

ソクラテス
 では、船を知るためには、船のつくり手のことは知らなくてもいいと思うかい?

青年
 どういうものが船であるかについてならば、つくり手のことを知らなくてもかまわないとは思います。

ソクラテス
 それではある船のことは分からないね。どこの木をどれだけの量、どうやって加工して、どんな人間たちの手によってどんな道具でつくられたのか。
 それとも、そういった事柄を知らなくても、その船のことを知ったことになるかい?

青年
 いえ。それらが分からなければ、その船のことは分かったことにならないと思います。

ソクラテス
 するとやっぱり、僕らは行使者のことを知らなくてはいけないわけだ。

青年
 確かに。

ソクラテス
 僕らが行使者のことを知ることで、知ることができるのは行使者が行使しているものについてでしかないのだね?

青年
 そうですね。

ソクラテス
 しかし困ったことに、行使者について知っていないと言うのに、行使者について知っているというのも不正だと思われる。

青年
 その通りです。

ソクラテス
 我々は、何も知ることが出来ないのではないだろうか?

青年
 何とも、申せません。

ソクラテス
 何かを知るためには、それをつくりだしているものを知らねばならない。それをつくりだしているものをさらにつくりだしているものも知らなければならないわけだ。
 どこへ行き着くだろうか?

青年
 何者にも作り出されていないものに行き着いたとき、もはやそれを知る手だてを失います。

ソクラテス
 君はそれを、宇宙の原理と呼んだね。宇宙の原理がありとあらゆるものをつくっているのだろうね。だから、宇宙の原理を全て知ることができれば、宇宙の原理によってつくられているありとあらゆるものを知ることができるはずだ。
 宇宙の原理を知るためには、宇宙の原理をつくりだしたものを知らなければならないのではないか?

青年
 そう思われます。

ソクラテス
 宇宙の原理は、何者にも作り出されていないと前提されているのだね。

青年
 はい。

ソクラテス
 宇宙の原理を知ることは、不可能であるわけだ?

青年
 ……そうなります。

ソクラテス
 ここで探求を止めるわけには行かない。
 僕としては、それがなんであるかを知ることは不可能であるけれども、それがどんな働きをするかを知ることは可能なのではないかと思うんだ。

青年
 珍しく……智慧を産まれましたね。

ソクラテス
 そうだね。僕自身驚きだよ。いつの間にか、僕には智慧を産む力が備わっていたのだろうか? 君のおかげかい?

青年
 私はなにもしていないと思いますが。

ソクラテス
 とてもとても久しぶりに生み出した僕の精神が、よい子であるか、悪しき子であるかを見極めねばなるまいね。手伝ってくれるかい?

青年
 もちろんです。

ソクラテス
 はじめよう。僕の子が、立派に育ちうるかどうか。
 僕は知らないものをなんであるかと、名前で呼ぶことは出来ないんだ。犬がいたとしよう。僕はそれが犬であることを知らないから、僕はそれをなんであるかと言うことは出来ない。けれども、それがどうやら僕たちと同じ生き物であって、足に見えるものがあり、しっぽに見えるものがあり、耳に見えるものや、目に見えるものも持っているようだということができる。
 顔の前に何かをかざせば、目がきょろきょろと動くかも知れない。すると、その生き物らしきものは、顔の前にあるものに反応する性質を持つようなものであることが分かるだろうね。
 さっきの船を例に取れば、船を造ったのが誰であるかが分からなくても、それの持つ働きや性質は分かるのではないだろうか?

青年
 確かに、分かるものだと思います。

ソクラテス
 行使者のことを知らなくても、それがどんな働きを持つものであるかは分かるということだろうね。

青年
 そのようです。

ソクラテス
 どんな働きを持つかは分かっても、それがなんであるかは分かったことにはならないと思うが?

青年
 そう思われます。

ソクラテス
 なんであるかと言うことと、どんな働きを持つかは別なものであるわけだ。

青年
 そうなります。

ソクラテス
 どうやら、僕の子どもは今のところすくすく育ちそうだね。
 再びいま来た道を、戻ってみようではないか。
 僕たちは、自分とはなんであるかを知ることは出来ないと知ったのだ。けれども、自分がどんな働きを持つものであるかは分かるかも知れない。

青年
 はい。その通りです。

ソクラテス
 僕たちは今まで自分を知ることを求めてきた。それが徳であり、善でもあるから。だからずっと、自分とは何かを問いかけてきたわけだ。
 しかし今、一つの答えを見た。自分とはなんであるかを知ることは出来ないんだ。

青年
 はい。

ソクラテス
 僕たちができるかもしれないことと言ったら、自分とはどんな働き……性質と言ってもいいかな……を持つかを知ることだけなんだ。

青年
 その通りです。

ソクラテス
 自分の性質を知ることが、自分を知ることだろうか? 自分を知ることとは、徳を行うことであったから、徳であったね?

青年
 そうでした。

ソクラテス
 自分の性質を知ることが徳でなければならないわけだ。

青年
 もしも、自分の性質を知ることが、自分を知ることであるならば。

ソクラテス
 見極めなくてはなるまい。
 自分の善を行使しているものを、先ほどから脳と呼んでいる。この脳には、自分の道具を行使するような性質があると思うかね?

青年
 あると思います。

ソクラテス
 脳は、善によってそれを行使しているのかい?

青年
 いいえ。

ソクラテス
 脳以前には、知は存在しないのだった。
 脳がどんな脳反応を作り出す性質を持っているかを知ることは、できあがる脳反応がどんな性質を持っているかを知ることになるだろうか?

青年
 知ることになります。

ソクラテス
 脳反応がどんな性質を持っているかを知るためには、脳がどんな性質を持っているかを知らねばならないだろうか?
 船がどんな性質を持っているかを知るためには、船を造りだしたもの全ての性質を知らなければならないだろうか?

青年
 いいえ。船を造ったのが誰だか分からなくても、何によってつくられているのかを知らなくても、実験を重ねてみればどんな性質を持っているかが分かります。

ソクラテス
 脳につくられたものの性質は、脳を知らなくても確認できるわけだ?

青年
 はい。

ソクラテス
 我々は脳を知らぬままにおいておいて、それによってつくられている脳反応を知ることができると言えるようになった。
 脳反応によって行う善は、まさしく善であろうか?

青年
 と言うと?

ソクラテス
 脳反応にとって善なることを行う者がいたとしよう。その人は、いったい誰にとっての善を行っているのだろうか? 問いを変えれば、それを善であると思っているのは誰なのだろうか?

青年
 脳反応だと答えますが。

ソクラテス
 もしも脳反応にとっての善が、自分にとっての善であるというならば、脳反応を知ることが自分を知ることであり、自分とは脳反応のことなのか、と聞くことができるわけだ。
 自分とは、いろんな部品によって出来ているとしたら、最も大きな全体のことであり、それよりも小さいものは全て自分の部品であらねばならないと了解されたね?

青年
 はい。

ソクラテス
 自分には大きい小さいの差があると思うかね?

青年
 先ほどの山の例えのようにですか?

ソクラテス
 そう。君にはいくつもの部品があり、その部品全てが合わさったときに初めて君自身であるといえると思うかね?

青年
 どのようにしたら、答えが出せるでしょうか。

ソクラテス
 君の目や鼻は、君のものではないのだろうか?

青年
 私のものであると思います。

ソクラテス
 それら一つ一つが君なのかい?

青年
 だとすると、私はとてもたくさんいることになりますね。髪の毛だけでもこんなにあるし、歯もあれば指もある。とても、それら一つ一つが自分自身であるとは思われません。

ソクラテス
 それらをなんだと思う?

青年
 私の部品であると思います。

ソクラテス
 君自身とは、それらの一つ一つよりも大きいものであるわけだ?

青年
 そうあるはずです。

ソクラテス
 君の体の一つ一つは、君そのものではなく、君の小さい部分であるわけだね。
 君の脳とは、君の部品に含まれると思うかい?

青年
 脳の細胞とそれ以外の細胞とは、元々一つの細胞から出来ています。同じ細胞を起源に持つものを、別なものであるとは考えられません。

ソクラテス
 脳もまた、君の一部であるわけだ?

青年
 そうです。

ソクラテス
 もっとも大きい徳を行うのは、最も大きな自分であるとも同意されたはずだが?

青年
 されました。

ソクラテス
 では、脳反応は最も大きな自分であろうか?

青年
 脳反応を生み出している存在がありますので、最も大きな自分ではないと思われます。

ソクラテス
 もっと大きい自分が存在するということだね。
 それはなんだろう?

青年
 何者にも行使されていないものがそれだと思います。

ソクラテス
 宇宙の原理、またここに来たわけだ。
 脳反応の性質を知ることのために、宇宙の原理の性質を知る必要はあるかい?

青年
 ありません。

ソクラテス
 行使者を知らなくても、道具の性質は分かることになった。しかし、行使者の性質を知ることは、道具の性質をより多く知ることにならないだろうか?

青年
 船の性質は、材料を知らなくても分かります。けれども、つくり手のことや、材質のことを知ればよりよく分かるはずだということですか?

ソクラテス
 そういうことさ。どう思うね?

青年
 はい。今まで分からなかったことも、より多く分かるようになると思います。

ソクラテス
 たとえば?

青年
 剣で人を斬ってみれば、その剣が人を斬ることのできる性質があることを知れるでしょう。石でも岩でも実験して斬ることができれば、それらをも斬る性質を持っていると分かります。世界のどのようなものでも言えます。
 しかし、我々の手の届く範囲にないものについては実験することが出来ません。それについては、切れるのか切れないのか分からないことになります。しかし、その剣の材質や、剣匠の性質を知った後であれば、実験するまでもなく答えを出せると思われます。

ソクラテス
 そういうことになるね。行使者の性質を知ることは、道具の性質のことをよりいっそう知ることになるわけだ。宇宙の原理がどんな性質を持っているかを知ることとは、宇宙の原理が作り出すありとあらゆるものについて最もよく知るということにつながるのではないだろうか?

青年
 お言葉の通りです。

ソクラテス
 自分とは、宇宙の原理でできているものだと思うかい? それとも、宇宙の原理とははずれたものによってつくられていると思うかい?

青年
 宇宙の原理からは、はずれようがないと確信しています。

ソクラテス
 そうだね。すると、自分は宇宙の原理でつくられているのだから、自分の部品も宇宙の原理でつくられているはずだね?

青年
 はい。

ソクラテス
 自分の部品を全てあわせて初めて、自分になる?

青年
 そうです。

ソクラテス
 自分の部品の性質をより多く知ることが、より多く自分を知ることではないかね?

青年
 そういうことになります。

ソクラテス
 自分の性質をいちばんより多く知るためには、何についての性質を知ればよいだろうか?

青年
 宇宙の原理の性質です。

ソクラテス
 宇宙の原理の性質を知ることが、自分をいちばんよりよく知るということだね?
 自分を最も知るということこそが、最もの徳ではなかっただろうか?

青年
 はい。

ソクラテス
 宇宙の原理の性質を知ることが、最高の徳であると言うことではないのかい?

青年
 そのようになります。

ソクラテス
 では、これでこの議論もおわりだろうか。徳とは、宇宙の原理を知ることである、と言われたのだから。

青年
 しばし、お待ち下さい。
 宇宙の原理というのは、たくさんあるのでしょうか?

ソクラテス
 宇宙の原理がたくさんあるというのは? 君には温度の高いもので凍るような原理が働き、僕には燃えるような原理が働くということかい? 同じ物質、同じ温度である状態で?

青年
 そうです。同一の条件で、一方では燃え、一方では凍るというような。

ソクラテス
 僕にはとても、そんなことがあるとは思えないが。君には、そう思えるのかい?

青年
 宇宙の原理がたった一つであり、また常に同じ姿をしているのだとしたら、どうして我々人間や、犬や猫、蟻や蠅、石や水などが生まれるのでしょうか? 全てが宇宙の原理というたった一つのものからつくられているのだとしたら、どうして一つのものから多様なものが産まれるのでしょう?

ソクラテス
 その一つのものは、いつも同じ姿をしているのではないのではないかね? 人間を生もうとしているときの姿と、蟻を生もうとしているときの姿では、きっと異なっているに違いない。

青年
 ですが、宇宙の原理はどうやら一つのようです。そして、ときどきによって原理が変わるということもなさそうです。

ソクラテス
 宇宙の原理は一定だが、ほかの何かが不定だということだろうね。それは、なんであると思われるかね? 君たちの科学者ならばなんと答える?

青年
 科学者に問い合わせねばなりませんが……きっと、カオスについてお話しいただけるのではないでしょうか。

ソクラテス
 カオス? 混沌のことかい?

青年
 語源はそんな感じでした。
 我々がカオスというのは……少々説明がややこしいのですが、賢者が相手であれば、まずその普遍的性質から述べることで、つかんでいただけるかと思います。
 ある一つの存在や現象は、それ以前のありとあらゆる存在や現象を原因にもち得、ある一つの存在や現象は、それ以後のありとあらゆる存在や現象の原因になり得る、と言うものです。

ソクラテス
 その存在や現象は何でもいいのかい? 野原の石でも?

青年
 かまいません。

ソクラテス
 夜空を星が流れるのは、野原の石が原因であることもあるというわけだね?

青年
 その通りです。しかし、少しお言葉が違うように思われます。星が流れる原因が、野原の石だけであることは、さすがにまず考えられないことなのです。しかしその石が、無数にある原因の一つであることはあり得るということなのです。

ソクラテス
 なるほど。君のいうことはこういうことだろうか?
 宇宙の原理は常に一定不変である。しかし、宇宙の原理によってつくられたものがある。最初に宇宙の原理がつくりだしたものは一つだったかも知れないが、次に宇宙の原理が作り出すときには、すでにある存在が誕生している。あるものが存在している後から誕生するものとは、すでにあるものの影響を受けなければならないと。

青年
 その通りです。

ソクラテス
 原理は普遍でも、宇宙の姿はどんどん変わって行くから、新しく生まれてくる物は全てそれらをも原因に持っていなければならないと。

青年
 まさしく。

ソクラテス
 なにかしらの存在や現象とは、宇宙の全ての存在や現象と影響しあいながら存在しているということになる。
 時に一つ、不可解なことが思われるが、君も気づいているだろうか?

青年
 無限に存在が作り替えられてしまうということでしょうか?

ソクラテス
 そう。君の言ったことを前提とすると、全ての存在がいつまで経ってもある存在として確立できないのだ。
 説明を容易にするため、記号を使うとしようか。
 AとBを使おう。でも、最初に存在するのはAだけだ、いいね?

青年
 了解しました。

ソクラテス
 Aは最初ただ一つ存在するものとして、Aであった。そこにBが現れるとしよう。BはAを原因に持つね?

青年
 持ちます。

ソクラテス
 さて、ここでBが誕生した。
 全ての存在は、全ての存在と影響しあうのだったね。BはAに影響を与えないのかい?

青年
 与えます。

ソクラテス
 Bが存在するようになったことで、Bを原因に持つAが誕生する。これをA1と名付けよう。このA1は、僕たちがぱっと見ただけではどこが変わったか分からないかも知れない。けれども、今までと違う原因によってつくられているのだから、Aとは違うものだよね?

青年
 違うものです。

ソクラテス
 世界にはAが存在しなくなり、A1が存在をはじめた。BはAを原因に持っていたのだったね? ところがもはやAはなく、あるのはA1だけだ。Bの原因であったものがなくなってしまったのだから、もうBもあり得ないね?

青年
 あり得ません。

ソクラテス
 Bはなくなり、新たにA1を原因に持つB1が産まれるのだ。A1はBを原因にしていたのではなかっただろうか?

青年
 そうです。

ソクラテス
 Bが存在しなくなった今、B1を原因にしてA2が作り出されねばならない。
 これは、いつかおわりが来ると思われるだろうか?

青年
 決しておわりが来ることはないでしょう。

ソクラテス
 二つ以上何かが存在してしまうと、もはやいつまで経っても存在が完成しないことになるのではないか?

青年
 そうなります。

ソクラテス
 すると我々が見ているのはなんだろう? 我々や、我々のまわりにあるものは、完成した存在なのか、それとも完成途中の存在なのか、あるいは存在をはじめたばかりの存在なのだろうか?

青年
 完成したものではあり得ないと思います。無限に続くと言われたのですから。

ソクラテス
 では、いったい何なのだろうね?

青年
 これについても、私は現代の科学者の言葉を援用するほかはないようです。
 光円錐という概念があります。これは、アインシュタインという科学者を発端として、光速を越えるものはないという前提の下に成り立っているものなのですが、とりあえずこのようなものです。
 ある現象を引き起こす原因になったものがあるとして、その原因が通過してきた距離と浪費した時間があるはずだというのです。光がある1カウントの間に、AからBまで進むものだとしましょう。すると、ある原因がAにあるとして、同じ1カウントの間にBよりも遠いCに到達することはあり得ないのです。

ソクラテス
 光が最速だと言われているのだからね。

青年
 その原因はAからBまでの間でしか働かないと。と言うことはです。運動能力が有限である以上、はるか彼方の遠いところから、この場所まで来るのにはとっても時間がかかると言うことになります。

ソクラテス
 そのようだ。

青年
 運動能力に限りがあるならば、その運動回数も有限だと思われませんか?

ソクラテス
 思われるね。ある国とある国では無限に書簡のやりとりが続くとしよう。しかし、書簡を届けるには馬でも時間がかかる。一年の間に何回やりとりができるかと言ったら、決して無限ではあり得ない。たとえやりとりが無限に続くものだと仮定したところで、ある時点での往復回数は有限に違いない。

青年
 はい。そういう意味です。

ソクラテス
 存在が存在に影響を与えている回数というのも有限であると言うことだね。

青年
 そのように思われます。

ソクラテス
 僕たちが見ているこれらのものというのは、有限回数存在を作り替えられたものであるというわけだ。

青年
 そうに違いないと思います。

ソクラテス
 当然ながら、完成された存在を知ることや見ることも不可能であるわけだね?

青年
 存在は、無限に自分を作り替えて初めて完成しますからね。無限のものなんて、知ることができるとは思えません。

ソクラテス
 僕たちは、宇宙の原理を知ることが自分だと、ひとまずは結論した。しかし、宇宙の原理一つを知っても、ありとあらゆるものの多様性を理解することは出来ないのだった。だから、宇宙に存在する個々のものまでも理解しなければならないと考えるのだね?

青年
 そうです。

ソクラテス
 しかし、個々のものの存在とは、無限に続く変化のせいで決して捕らえることが出来ないわけでもある。我々は、有限にとどまる存在を知ることで、個々のものを知ったと考えるべきだろうか?

青年
 個々のものの、そのときの性質であれば知ったと言えると思います。

ソクラテス
 うん。僕たちは、それがこれからもそうであるというように個々のものを知ることは出来ないのだね。そのときにそれがどんな性質のものなのかを知るだけであると。
 あるときの性質を知ることで我々は満足するべきだろうか?

青年
 ある時とは、いつのことでしょうか?

ソクラテス
 任意だよ。いつでもいい。昨日でも明日でも、100年前でも100年後でも。現在でも、過去でも未来でもいいから、ある時の性質を知ることで、満足するべきかい?

青年
 昨日快であったことが、今日快であるとは限りません。今日善であることが明日善であるとも言えません。
 昨日快であったことならば、私はずっとその快を行うべきであるのでしょうか?

ソクラテス
 そういうこと。ただ、それについて僕が質問してるのだけども。君は、昨日風邪を引いていたから薬を飲んだとしよう。すると、今日も飲むべきだろうか?

青年
 私の風邪がまだ治っていなくて、その薬が今日もまた私にとって善であるならば。

ソクラテス
 もしそうでなかったら?

青年
 飲むべきではありません。

ソクラテス
 なぜだい?

青年
 薬は、必要でないときは有害です。体の自己治癒能力を減退させますし、なにかしらほかの部分にも影響を与えるものです。

ソクラテス
 君が明日風邪を引くのだとしたら、薬を飲むべきかい? 予防になる薬ではないよ。病を癒すための薬だとして。

青年
 飲むべきではありません。

ソクラテス
 君にとってあるとき善であったからと言って、いつでも善であるとは限らないわけだ。

青年
 そうなります。

ソクラテス
 いつの時点でも善を行うものと、ある時は善を行うがある時は悪を行うものではどちらがより徳のある人間だと思うかね?

青年
 いつで善を行うものです。

ソクラテス
 その理由も聞かせてもらえるかい?

青年
 善は知によってなされます。最も知のあるものが最もよく善を成すものです。いつでも善を行うとは、いつでも知のあるもののことであり、ある時悪を行うものとはあるときは無知であるもののことです。
 いつでも知のあるものと、時には無知であるものを比べるならば、いつでも知のあるものがより知のあるものであると思われます。ですので、いつでも善を行うものが、より徳のある人物であると思われるのです。

ソクラテス
 結構。
 僕たちはみんな、ある時はある形だがまた別なときは別な形であるのだね? 僕らの目では見えない変化だし、観測することも容易なことではないだろうけども。

青年
 はい。

ソクラテス
 僕たちがあるとき善をなすためには、僕たちがそのときどんな性質を持っているのかを知らねばならないのではないだろうか?

青年
 そう思います。

ソクラテス
 そのときというのは、すぐに終わってしまうのであり、すぐに次のものが生まれるのだね?

青年
 そうです。

ソクラテス
 さぁ、こういうことになったぞ、過ぎゆく時代の青年よ。科学の時代の青年よ。
 最も大きな自分とは宇宙の原理のことである。しかし、宇宙の原理だけでは自分は生まれていない。宇宙にあるありとあらゆるものと宇宙の原理とで自分が誕生しているのである。宇宙のありとあらゆるものとは常に姿を作り替えるようなものである。その永遠の姿は決して捉えようがない。
 僕たちが、自分を知るとはすなわちこういうことだ。

「宇宙の原理の性質と、宇宙のありとあらゆる存在のその時点での性質を知ること」

 これに他ならないのではないか?

青年
 他なりません。

ソクラテス
 すると君、徳とは何かね?

青年
 今しがた、あなたがおっしゃったことです。

ソクラテス
 うん。
 やっと終わったようだ。でもまだ君に聞きたいことがあるんだ。

青年
 なんでしょうか?

ソクラテス
 できると思うのかい?

青年
 ……私に、ですか?

ソクラテス
 僕でもいい、君でもいい。ほかの誰でもいい。どんな人間でも、どんな生き物でも、それが可能だと思える者がいるかい?

青年
 ……いません。

ソクラテス
 誰もいないのかい? 君の尊敬する賢者の誰でもいい。きっと君の時代には多くの賢者がいることだろう。僕なんか足元にも及ばないくらいにね。徳でもそうさ。君はさっき否定したけど、やっぱりあれは違う。君たちの方が僕よりも徳の面でも優れているはずだ。

青年
 どうしてでしょうか?

ソクラテス
 君たちの方が、宇宙の原理や宇宙にあるものについてよく知っているじゃないか。僕たちは、この宇宙が人間が飛べるように出来ているなんて知らなかったんだ。町一つ破壊する武器を人間が作れるという原理も知らなかった。
 宇宙の原理を知ることは、自分を知ることの一つだろう? それを君たちの方がよく知っている。君たちの方が、徳があるということじゃないのかい?

青年
 そうなのかも知れません。しかし、私の目にはそうは映っていませんが。

ソクラテス
 君がそう思いたいだけなのか、あるいはそういう風にしか思えない程度しか現状を把握していないのかだよ。今までの議論から考えて、科学の進んだ時代の人間は、進んでいない時代の人間よりも徳があることになる。

青年
 ほとんどの人は、原理を理解しているのではありません。そういうものがあると言うことを聞いたり読んだりして知っているだけです。

ソクラテス
 それでも僕たちよりは上さ。僕は、そういう性質を持つようなものを知らなかったんだ。そのときそれがどんな性質を持っているのかを知ることも、自分を知ることの一つだったのではないかい?

青年
 そうでした。

ソクラテス
 そのほとんどの人たちだって、核兵器というものが町一つを破壊するような性質を持つものだって知っているんだろう?

青年
 それは知っています。

ソクラテス
 では、僕たちの時代の人間よりも徳を知っているはずだよ。先ほどの結論を捨てない限りは。そして、捨てられるようなものかい。長々といろんな角度から見てきた。いろんな道を後戻りしながらやっと迷路を抜けたんだろ? 行っていない通路なんかどこにある。

青年
 一ヶ所を除いては、行き尽くしたつもりです。

ソクラテス
 そう。一ヶ所を除いてはね。
 徳が知識ではないかもしれないと言うこと。

青年
 ええ。もしかしたら、何も知らなくたって徳は行えるのかも知れません。それはとても否定できません。たまたま、偶然最も大きな自分にとって善であることを行っている人間が、いないとは言えないのですから。

ソクラテス
 うん。もしかしたら、核兵器を用いて都市を破壊し尽くしている科学者こそが、最も善なる者である可能性すらあるんだ。

青年
 でも、そうではないかも知れない。私は正しい推論によって、正しいと思われる結論を出したいと思います。

ソクラテス
 間違っていると思われる推論によって、正しい結論を出したとしても、認めないと言うことかい。

青年
 いえ、それが善であることは認めましょう。しかし、それが善であることを知ることは不可能です。自分を知らない限りは。

ソクラテス
 それが善であると知っているのでない限り善ではないとは、言えないのではないか?

青年
 言えませんね。でも、それが善であると知っていない限り、善であるとは言い切れず、悪であるとも言っていいことになります。自分自身にとってすら悪であるかも知れないような善では、私は必ずしも善を行うかどうか分かりません。

ソクラテス
 善であるにもかかわらず、善を行わない場合があるわけだね?

青年
 知識によってでなく、徳が行われることもあるならば。

ソクラテス
 徳が知識でありさえすれば、確実に善を行い悪を行わずにすむと。よほど幸運の女神に気に入られている者でなければ、自分を知らなければならないね。

青年
 運任せというのは、嫌いです。

ソクラテス
 多くの人々が、君に同意するかどうか。あり得ないような小さな確率にかけるくらいなら、必死の努力でつかみ取ろうとするか。

青年
 多くは、運任せでしょうね。でなければ、宝くじなどがあんなに売れるとも思えません。

ソクラテス
 宝くじ?

青年
 運さえ良ければ、多額のお金がもらえるというくじですよ。

ソクラテス
 ふーん。まぁ、できることなら、楽をしてよい思いをしたいと思うのが人だからね。仕方がないのかも知れない。
 だがまず答えてくれ。誰も得ることの出来そうにないこの最高の徳を、いったい君は求めるべきだと思うのか。思わないのか。

青年
 求めようと思わない者は求めなければよいと思います。求めようと思うならば、求めなければなりません。

ソクラテス
 徳を求めるものは? 自分を求めるものは? 立派なことや美しきこと、善を求めるものは?

青年
 なんとしても、これを求めねばなりません。

ソクラテス
 それはいったいなんだというのだ? どうやったらそれを手にするかも分からないというのに、本当に求めようがあると思うのかい?

青年
 誰も手にしたことがないからと言って、誰も手にすることができないものであるかは分からないはずです。

ソクラテス
 でも君は、できると思っていないのだろう? 誰一人として。

青年
 今のところは。

ソクラテス
 これから誰かが現れるかもしれないと言うことかい?

青年
 その可能性もあります。

ソクラテス
 もしもその可能性があり得るとしたら、それはどんな人のことなんだろう? 宇宙の原理と、宇宙全てのその時点での存在を知り尽くすことのできるものとは。

青年
 この世の全てに対する学問を究めるものだと思います。

ソクラテス
 数学とか、文学とか、科学とかかい?

青年
 はい。歴史学とか、生物学とかも含まれます。

ソクラテス
 君の時代にある学問と名の付くもの全てを究めることが、その条件だというのだね?

青年
 それだけではありません。これから新たに誕生するような、我々がまだ知らないような学問も全て究め尽くすことが条件となるでしょう。

ソクラテス
 君にも無理だし、僕にも無理だ。本当に、それができるような人間が誕生するのかい?

青年
 人間であるかどうかは重要ではありません。人間とは違う生き物であるかも知れません。いえむしろ……人間にはそれを行うだけの能力が欠けているように思えるのです。

ソクラテス
 君は、人間にはそもそも無理なことを徳だという。それでも、求める者は求めねばならないという。不可能なことを人に勧めるのかい? いかに、不可能と思われているだけだとはしても。

青年
 賢者よ。しかしこれこそが、真実なのではないでしょうか? 宇宙の何もかも、ありのままの姿こそが真実という名で呼ばれるべきものではありませんか?

ソクラテス
 ああ。そう呼ぶべきだろうね。

青年
 あなたは、真実を探し求めることをなんだと言いましたか?

ソクラテス
 ……知を愛することだといった。

青年
 哲学、ですよね。

ソクラテス
 その通りだよ。

青年
 あなたは、哲学を止めますか? 知を愛することを止めますか? 虚偽と欺瞞の世界に目をやって、自分ではなく、自分の一部を楽しませてくれるものに憧れますか?

ソクラテス
 いや。

青年
 あなたは一生を知を愛することに費やしました。今でもまた、同じく知を愛そうとする者と共に歩いて下さる。ここで、歩みを止められますか?
 あの青い星。あの水の星が、私達の住む大地です。あの世界を灰色の大地に化さんと、ありとあらゆる道具で自らの私欲を満たそうとしている者達と共に、忘れ、笑い、怒り、泣いたり悔やんだり、全てを人のせいにして、自分では何もしようとせずに眠りにつきますか。
 私は行きますよ。宇宙の果てまで。私の脳反応がそういう性質に出来ているのかも知れません。それを否定はしませんが、それでも行きます。そこにしか、絶対に自分はいないのです。

ソクラテス
 分かった、一緒に行こう。いって共に励まそう。僕も君もそこへはたどり着けまい。いって果てよう。いつか僕たちの後から来る者がいたら、せめて道案内をつとめよう。君も精神の産婆になるがよい。

青年
 はい。

ソクラテス
 だがまだだ! まだ早い。君はさらにいくつもいくつも間違った悪しき子を産まねばならぬ。たくさん産んで、全てを始末したまえ。後から来る者達に言えるように。この子どもと、この子どもは不正だと。

青年
 そうします。

ソクラテス
 さらばだ、過ぎゆく時代の青年よ。君は君の中の僕とだけでなく、他の人の中の僕とも話しをしなければならない。それだけでなく、僕以外の人たちとも話しをしなければならないはずだ。

青年
 心得ました。


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