2017年9月16日土曜日

光速度不変とは何か。その意味と不気味さ、アインシュタインを驚かせたもの(2)

速度というものは、ある二つの間の関係であることを述べた。さて、それが光速度不変とどう関係するのか、話を進めよう。

そして、光とはまるで幽霊か何かのような不気味さを感じてもらえたら幸いだ。


光速度不変とは


光速度不変という言葉は、その名の通りの意味だ。光の速度は不変だよ、ということを言っている。不変だよ、というのは「誰から見ても一緒だよ」ということ。

「誰から見ても、光の速度は秒速約30万キロメートルという、同じ速度に見えるよ」ということでもある。「光の速度を測った人たちはみんな、口を揃えて、同じ速度を答えるよ」と言ってもいい。

分かるだろうか? 分からないだろう。ここで分かってしまった人は空気が読めていない。それが分からないはずだからこそ私はこんな記事を書いているのだから、分かってしまった人も分からない振りして読んでくれ。

そのような、誰からも同じ速度に見えるようなものは、存在するはずがない。存在してはいけない。

アインシュタインは最初、光速度不変なんて結論には納得がいかず、そんなはずあるかと反証をあげようとしたらしい。ところがそれができなかったため、むしろだとすればどうなるかということを進めてできあがったのが、相対性理論だ。

光速度不変というのは、そのくらい信じがたいことなんだ。

誰から見ても同じ速度に見えると言うことは、誰と光を比較しても、両者の間の速度は一緒と言うことになる。私と光の間の速度も、車と光の間の速度も一緒。私が寝ていても、走っていても、飛行機に乗っていても、私と光の間の速度は、いつも同じに見える。

決して逃れられない追跡者


ちょっと考えてみてほしい。光速度不変を離れ、普通の日常的な感覚で考えてみてほしい。

君が誰かに追いかけられているとしよう。それが通り魔か変質者か借金取りかはどうでもいい。なにか、悪意ある存在が君を追跡している。

そのとき君と追跡者との距離の変化は、君の行動次第で縮んだり離れたりするだろう。逃げれば距離の変化が緩やかになり、向かっていけば距離の変化が激しくなる。

同じ時間の間に距離の変化量が減るということは速度が落ちるということであり、距離の変化量が増えれば速度は上がったことになる。

つまり、君が追跡者から逃げているときと立ち向かっているときでは、両者の間の速度は違うことになる。これが当然だ。そうなるのが当たり前。相対性理論以前のニュートン力学なら当然そうなるし、生活している我々の感覚としてもこうでなければおかしい。

ところが光はそうではないという。両者の間の速度が、観測者の状態にかかわらず同じに見える。観測者が光から逃げようとしても、向かおうとしても、両者の間の距離の変化量が一定というわけだ。

もし自分と追跡者の間でそのような状態になったとしたら、普通はこう思うだろう。

「こ、こいつ遊んでやがる。逃げれば足を速め、向かっていこうとすれば足を緩め、こちらの動きを見ながらスピードを調節してやがるんだ」

「こいつやばい。頭おかしい。何でこんなのに追いかけられなきゃいけないんだ。捕まったら何されるか分からないぞ。どうしよう、逃げなければ、大急ぎで、そうだ電車にでも乗っていけばさすがに・・・」

もちろん、電車に乗ろうと飛行機に乗ろうと、そいつは同じ速度で君を追いかけてくる。長い時間をかけ、君がじっくり恐怖を味わってくれることを楽しんでいるかのように。

光速という特殊性


というわけで、不変の速度を持つということが、どれだけ奇妙なことであるか感じてもらえただろうか。光の速度が不変であるということは、まるで光に意志があり、対象と自分との間の距離の変化量を調節しているかのように見えることになる。

んなわけあるか。当然そう言いたい。だが、どうやらこれは、事実らしい。

ところで、私は不変の速度を持つ追跡者で語って見せたが、実際にはそういうものは存在しない。光速で走る列車なるものと一緒。あくまでも、理屈を理解するための思考実験だ。

というのも、実際には光が特別な存在というわけではないらしい。私はこれについてはそう言われたというだけなのでさっぱり理解していないが、特別なのは「光」ではなくて「光速」の方だそうな。

もちろん、光は光速で移動するので、結局特殊な存在ではあるのだが、もし光以外にも光速に達するものがあれば、それもまた同じように特殊になる。

その理屈で行くと、光速ではない追跡者は不変の速度を持ち得ない。追跡者を光速で移動すると考えればいいが、それだとわざわざイメージしやすい追跡者に例えた意味がない。光速移動の追跡者とか、余計混乱するでしょ?




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