2017年9月5日火曜日

「こうしてほしい」を「こうするべき」にすり替えてしまう心理

世の中の至る所で見かける典型パターンの一つに、希望を義務にすり替えるというものがある。

「こうすればよかったのに」を「こうするべきだった」と語る場面なら、日に一度くらい見かけられるんじゃないだろうか。

なぜ人は、自分の個人的希望を、社会全体の義務であるかのように語ろうとするのだろうか。

自分が世界の中心なのか?


私なんかは、こうして世界についていろいろと語ってはいるが、本当の正しい事なるものは知らない。私はただ、論理を積み重ねて、出てくる結論を書いているだけだ。その結論が実際に正しいかどうかは、私のあずかり知らぬ事。そんなものは、神様にでも聞かねば分からない。

だから、私は自分が正しいと思うことを書きはするが、それが間違っている可能性を常に念頭に置いている。それ故に、人が何を「すべき」かということは語っていない。私にとって重要な記事である、危険な自民党の憲法草案。緊急事態条項で選挙がなくなる(1)ですら、危険性を論理的に論じるにとどめ、だから人々はどうするべきか、には触れていない。

人権を侵害する契約は、無効とすべきだ(1)ではべき論を語ってはいるが、あれは社会にとって有害だという主張だからね。個人的希望とは違う。

私は自分が世界の中心だとは思っていない。私を中心に世界が回っているのではないと思っている。だから人に、ああするべきだ、こうするべきだとはほとんど言わない。

が、人々はそういう表現が大好きだ。何事に対しても、○○すべき、と断定する。それが、個人的な好みでしかなかったとしても。

この発想はクレーマーに似ている。クレーマーというのはその傾向を極度に発達させたものだ。

彼らは何かに対して○○すべきという意識を持ち、それに即していない相手に対して攻撃を加える。なすべき事をしていない相手は悪者だ。だから攻撃する名分もある。悪を討つ自分は、正義の味方、ということになる。

この発想はまさに、俺様が世界の中心なんだ、というものだろう。

世界を変えようとしてはいけないわけではない


今までの姿を改善していくことは正しい。

自分の嫌いなものだからと言って、それをなくそうとしてはいけない、というのではない。それではただの、現状維持という思考停止だ。

何か気に入らないものがあったら、問題を提起するのもいいだろう。それを変えるべきだと思う人を募り、社会活動を通して支持を集め、実現にこぎ着ける。

全くもって正しいやり方だ。

だが、初めから自分は正しい答えを知っているものとして、こうするべきだと語るのは、趣味の押しつけになる。

私は嫌いなものを嫌いだと表明することを認めるべきだと考えている。これについては、後日語ることにするが、社会からなくしたいものを表明するのはかまわない。嫌いなら嫌いと言えばいい。

だが、「嫌いだからなくしたい」と「嫌いだからなくすべき」では、意味が違う。希望や願望は、何でも勝手に持てばいい。何を願おうと、個人の自由だ。

しかしそれを他者にも押しつけるとなれば話は変わる。個人に勝手に社会のあるべき姿を決めつけられては困る。希望は個人の中に収まるものだが、義務は他者に強制するものだ。他者を自分の思い通りにできて当然という考え方は、わがままでしかない。

この「他者が俺様の言うとおりにするのは当然」という考え方は、様々なところで問題になっている。家庭や学校ではここから虐待が起きるし、仕事場ではパワハラに繋がる。

そうしてみると、この考え方は一般的すぎて、人々に染みついてるからどうにもならないのかも知れない。こういう意識の元に育っているのだろうから。

個人的希望を、個人的希望のままに要求するような社会になったら、10%くらいの問題は解消されるんじゃないかなぁ、という気すらしている。

関連:寿司のシャリ抜き論争。自分にとってのあたりまえを、他人にも押しつけたがる心理


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