ヒステリックな著作権(1)の続きとなる。
昔はおおらかだった著作権の扱いが、今では一般の人々にヒステリーを起こさせるまでになっている。それは何故なのか。どうしてこうなってしまったのか。
被害の規模が大きくなりすぎた
まず真っ先に思い浮かぶ理由だろう。違法コピーなどは昔から横行していた。しかし、いちいち目くじらを立ててはいなかった。友人同士でのやりとりぐらいならそれほどの規模にはならない。
例え全員が購入してくれることはなくても、仲間内で分担する形で、それぞれが何かを買ってやりとりしてくれるなら、それはそれで売り上げにもなる。
それが、インターネットの登場で、共有範囲が広がりすぎたために崩れてしまった。そう考えるのは、自然な発想だろう。
最近では、図書館の扱いにも動きが出てきており、新刊は図書館に納めないようにしたいという希望もあるようだ。図書館で用を済ましてしまう人が多いから、その分売り上げが下がってしまう、と。
この例をもって、「被害の規模は無関係だ」と主張することもできるかも知れないが、それは違うと思っている。この意見は、著作権侵害に対する意識の変化の結果として出てきたものだろうと予想する。
著作権の侵害を抑制することで、各業界での売り上げに回復が見られる。そのため、自分のところでもあやかりたいといって、少しでも得になる方法を模索した結果であって、その他の著作権がらみの動きがなかったとしたら、図書館に対する意識の変化もなかったのではないか、そんな気がしている。
不便な世の中とも言える
私は著作権については守るべきだと思うし、現状が守りすぎとはいわない。もうちょっと緩かった時代を懐かしみ、そこまでしなくてもという気持ちもあるにはあるが、先にやり過ぎたのは著作権を侵害する側だ。
侵害するにしても、もうちょっと節度を守るべきだった。
著作権保護を強めようとすると、一部の人たちが文句を言う。「売れるものを作らない方が悪い」だとか「文化が衰退する」だとか。好き勝手人のものを使っておきながら、それが当たり前になってしまった人たちは、他人のものを使わせてもらっているという意識に乏しい。
しかし、こういう考え方は、それほど異質ではない。基本的に、人間というのは自分の利益を中心に考えるし、既得権益にはしがみつきやすい。
その一つの結果が、共有ソフトで様々なデータを収集、配布した人だし、今でもアニメや漫画など、様々な著作物を違法アップロードしている人たちだ。彼らの頭にあるのは、善や悪ではなく、損か得かだ。
これが人間の基本的性質であることが、著作権をヒステリックにした原因だとみている。それはつまりこういうことだ。
著作物を勝手に使ってはいけない。そのことが厳しく取り締まられるようになった。その結果、自分たちの楽しみが奪われた。損をした。だから、他人も損をするべきだ。
自分が他者の著作物を無断で楽しめないのに、どうして他者は他者の著作物を無断で利用できるのか。自分が勝手に使ったら怒られたのだから、他者も勝手に使ったら怒られるべきだ。自分は勝手に使わないようにと言いつけられたのだから、他人にも言いつけるべきだ。
一言で言い表すなら、「おまえも俺と同じ思いをしろ」。
一応、可能性としては遵法精神によることも考えられる。今や人々は著作権の神聖さに目覚め、法律を守ることに新しい価値を見いだしたが故に、著作権を守り、また守らせることに忙しいのだ。
可能性はある。だが、実際はそうではないだろう。なぜならば、それならばフジテレビに対しては、引用の要件を満たしたかどうかのチェックを重視するはずだからだ。引用は、著作権法で定められている。法律を守ることに価値を見いだしているなら、法律で定めた引用にも価値を見いださないはずがない。
法律から、ローカルルールへ
が、それですべてではないだろう。一連の著作権保護の動きは、法律として現れてきたが、人々のヒステリーの原因は法律を離れたところにあることも考えられる。
聞いたことのある人は多いと思うが、掲示板などでのマルチポストは嫌われることになっている。多分もはや、何故嫌われるのか、何故マルチポストがいけないのかを論理的に説明できる人は少ないだろう。
そもそもマルチポストが嫌われていたのは、ブロードバンド時代より前だ。アナログモデム時代、テキストデータですら通信量を圧迫していた時代、同じようなテキストデータがあちこちに投稿されていては、インターネット全体に余計な負担をかけることになる。
ところが今やブロードバンドだ。1000文字で2キロバイトの通信量など、問題になる時代ではない。ちょっとくらい同じテキストがあちこちにあったところで、インターネット全体にかける負担など微々たるものだ。
そんなものを軽減するために「マルチポストすんな氏ね」などといちいち書いている方が無駄が多い。
しかし、それでもマルチポストは嫌われる。理由は簡単。嫌われるからだ。嫌われるものだと、悪いことだと聞かされた人がいるからだ。それはもう、そういうものなんだ。理由如何に関わらず、ローカルルールだから守らなきゃダメなんだ。
今の著作権の扱いも似たようなことになっている。人々は法律だから守らなければならないと思っているのではない。ローカルルールとして、こうしなければいけないと言われたことを鵜呑みにしてそれを守っているだけ。そのローカルルールの中に引用という概念が含まれていなかったら、法律が許してもローカルルールは許さない。
だから人々は、それが引用の要件を満たすかどうかなど、気にもとめない。彼らが守りたいのは、守らされているのは、法律ではないから。
私の予想では、「俺と同じ思いをしろ」とローカルルールは足並みを揃えて形成されてきたとみている。お互いがお互いを助長し、支え合いながら発展してきたのだろうと。
このとき「俺と同じ思いをしろ」というタイプの人は、律儀に引用の要件を満たしながら、その要件を満たせる範囲内でしか他者の著作物を無断使用しないという人ではないだろう。とすると、その思いから生まれたローカルルールの中に、「引用の要件を満たしていれば問題ない」というルールは含まれようがない。
彼らは、「これは引用だから大丈夫」という思いをしていないのだから。
これが、私の見る、著作権のヒステリックさの根源だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿