2017年9月4日月曜日

経験のない人間は口を出すなと言う詭弁

世の中では「経験のない人間は口を出すな」という主張が幅をきかせている。多くの人が、この言葉に説得力があると思い、正しい意見のように感じているようだ。

だが、こんなものはばかばかしい言い分であり、口を出すのにいちいち経験など必要とはしない。そうでなかったら大変なことになってしまう、ということを語ってみよう。

20年くらい前の記憶だろうか


私はもう10年以上、テレビをほとんど見ていない。自室以外では見かけることがあるのだが、見たいと思って見ることはまずない。それでも昔見ていたときの記憶として、こんな番組を覚えている。

とあるAV女優が出演していた。その人に対してテレビの出演者が「あんたそんな仕事していて恥ずかしくないの」とか、そういう話をした。それに対する回答が「やったことのない人間に言われる筋合いはない。言いたいことがあるならやってからにしろ」とか、そういう感じのものだった。

そう言い返された質問者はだまり、何も言えなくなってしまった。

アホだなー。頭悪いんだなー。と、そう感じた。こんな主張は、簡単に論理的に踏みつぶすことができる。

たとえば、殺人犯を非難し、おまえは悪いことをしたんだ、分かってるのかと言ったら「経験のない人間は口を出すな」とか言われても困るだろう。人殺しを非難するために、自分も人を殺してみなければならないなんてどうかしている。

政治家に文句を言えば、「政治家になったことのない人間は口を出すな」と返される。アメリカ大統領に苦情を言えば、「アメリカ大統領になったことのない人間は口を出すな」とまぁ、万事この通りだ。

このような言い分を、本当に受け入れるつもりがあるのだろうか? ないだろう? ならば、口を出すのに経験など必要ないと言うことを認めるほかはない。

ただし断っておくが、私は件のAV女優を悪く言うつもりは毛頭ない。私は職業に貴賎はないという考え方をしているので、AV女優という職業を何か悪いもののように言いたいわけではない。

そうではなく、ここで取り上げた理由は、「やったことのない人間に口出しされる謂われはない」という理屈は間違っているということの例にしたかっただけだ。この論法が間違っていることを示すのにかこつけて、AV女優をおとしめるつもりはないので、その点はお間違えのないように。

では何も知らない人間が口を出してもいいのか?


しかしながら、ろくに事情を知らない人間があれやこれやと断定して批評をしている姿を見ると、違和感を覚えることは多いだろう。

そういうときに、「何も知らない人間は口を出すな」と言いたくなる気持ちが分からないわけではない。ここには少し複雑な問題が潜んでいる。

一つは、「経験がない、ということと、知らない、ということは違う」こと。もう一つは、「口を出すためには、どのくらい知っている必要があるのか」ということ。

百聞は一見にしかずといい、経験することは、情報を集めることよりもよく知るための方法だと考えられている。実際のところ、これは場合によりけりであり、賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶという言葉もある。

たとえば、鉄砲を撃った経験がなくとも、その殺傷力や装弾数、有効射程距離や命中率などから攻撃部隊や防衛部隊の編成や配置を考えることは可能だし、優秀なスナイパーが作戦指揮の能力も高いとは限らない。

銃撃戦の経験がないということと、兵器の性能や運用を知らないということは繋がらない。やったことはないが、知ってはいるということはあり得ることになる。

確かに、兵器の性能を知らない人間が、兵器の運用方法に口を出すのは問題がある。おまえに何が分かるのかと言い返したくもなるだろう。

では、口を出すにはどの程度知っていればいいのだろうか。

戦争の是非を論じるためには、兵器の性能を知っている必要があるだろうか? たとえば兵器の運用が関係する形で論じるならば、知っていなければならないだろう。

戦車の性能を知らない人間が、「戦車さえ高性能なら戦争には勝てるんだ」などと言っていたら、ダメだこいつ・・・と思うしかない。

しかしながら、たとえば経済的影響を鑑みて、現在の情勢では戦争に踏み切るべきではないだとか、あるいは今なら戦争に突入しても大丈夫だと論じるのであれば、そこには戦車の性能という知識は必要としていない。

このことから考えて、人々が何かに口を出すために必要な知識とは、その人が出そうとしている口の内容次第と言うことになる。その人が知っている情報の範囲で完結できる内容なら、口を出しても問題ないと言える。

「知らない人間は口を出すな」という主張を見かけたときは、その主張をするためにどういう知識が必要かを考える癖をつけるといい。知る必要のない知識を求められているケースも多い。基本的に、この台詞は都合が悪いことを黙らせるために使用されるのだから。

倫理的指摘はめんどくさい


殺人犯を非難をするに当たって、「どのような理由があろうとも人を殺していい理由にはならない」と考える人ならば、相手の事情などは全く知らなくても問題ない。その人が人を殺したということさえ知っていれば、非難する理由があることになる。

「正当防衛が成立する場合を除けば、人を殺すことは許されない」と考えている人ならば、相手が正当防衛で人を殺したのではないということさえ知っていれば、相手を非難していいことになる。

この条件が複雑になればなるほど、確認するべき情報が増えていく。「介護疲れなら仕方ないよね」「生意気なガキが相手なら仕方ないよね」「外国人相手なら仕方ないよね」などなど、人によって人を殺しても許される理由が違ったりする。

この基準が違う人同士が論じると、めんどくさいことになる。

「おまえは人殺しだ、悪い奴だ」
「俺が殺したのはユダヤ人だけだ。何の問題がある」

みたいな会話がされかねない。一方は人種にかかわらず人を殺してはいけないと思っているが、一方はユダヤ人なら殺してもいいと思っている。

これはもう倫理次第だ。人を殺してはいけない理由などというものが論理的に証明できない以上、そういう想いは各個人が勝手に持つもの。そこを共有していない相手とはすれ違うほかはない。

何かを知っていれば指摘していいとかいうものではなく、何かを知っていなければいけないというものでもない。

「経験のない人間は口を出すな」とか「知らない人間は口を出すな」とか言われたときは、相手がただの逃げ口上を述べているだけではないかと疑い、その主張の穴を見つけてこじ開けられるようにしておくことをお勧めする。


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