2017年9月9日土曜日

寿司のシャリ抜き論争。自分にとってのあたりまえを、他人にも押しつけたがる心理

私は自分の流儀を他人に押しつけることが嫌いだ。

今回は、たびたび問題になる、寿司の食べ方を取り上げよう。ネタ部分だけを食べて米を残す人たちがいる。これがしょっちゅう非難されているのだが、私はこの非難は筋が通らないと思っている。

そしてこれらの問題は最終的に「こうしてほしい」を「こうするべき」にすり替えてしまう心理に繋がるというのが、私の見立てだ。

変わった寿司の食べ方をしてはいけないわけではない


寿司のネタだけを食べるという、変わった人たちは、どうやらダイエットをしているらしい。しかし、世の人々には大変不評である。

なぜ不評なのかと言えば、結局は自分の流儀を他人にも押しつけたいのだろうと思うが、一応もっともらしい理由はある。

たとえば「もったいない」。お行儀のいい日本人は、食べ物を粗末にしてはいけないと教わっている。だから、ご飯を捨てることになるのはもったいない。

テレビ番組などでも、食べ物で遊んだ際には、「このあとスタッフがおいしく頂きました」というのを出すようになったのはいつからか。

しかしながら、食べ物を捨てるのはもったいないから許されないという論法なら、まず先に規制しなければならないのはコンビニ弁当だ。毎日どれほどの量が廃棄されていることか。個人が残す米の量などとは比較にならないほど捨てられている。

しかしほとんどの人々は、コンビニ弁当を「もったいないから販売するな」とは主張していないだろう。売れ残りを減らす努力をしろ、とすらも要求している人は少ないはずだ。とすると、この「もったいない」というのは、本当の理由ではないことになる。

ほかには「そんなダイエットをする必要がない」というのもある。あるいは「寿司ではなくて刺身を食べるべきだ」とか。

これらは根本的に勘違いをしている。人は、必要のあることしかしないわけではない。してはいけないのでもない。

誰にとっての? 何にとっての? という定義にもよるが、私がお菓子を食べる必要はないし、ジュースを飲む必要もない。ただ健康のため、病院食的なものだけを食べ、水だけを飲んでも生きられる。

じゃあ、ジュースを飲む必要はないから、飲んじゃいけないのか? そんな馬鹿な。

人がどういうダイエットをしようと自由だし、寿司を食べようと刺身を食べようと自由だ。

ただし、なぜ刺身を食べないのかと疑問に思うのは自然だろう。私でも思う。それ別に、寿司じゃなくてもいいんじゃないか? と。そこで、刺身を食べればいいのに、と思ったり、刺身を食べてほしいと思うことは問題がない。

しかし人々は、そこで止まれない。「刺身を食べるべきだ」になってしまう。なぜなのか。

マナーを強制したがる人々


よく見かけられることだが、マナーとしてそうなっているから、人々は皆そうしなければならない、という考え方は多い。

屋外で化粧をしている人もよく非難を受けていた。何が気に入らないのか分からないし、それで誰にどんな害が及ぶのかも分からないが、ダメだと思う人が多いらしい。

香水が迷惑という意見には同意する。臭いは勝手に漂ってくる。

将棋にもこういうマナーがある。相手番に投了してはいけないらしい。私は別に、そういうマナーがあってもいいし、守りたければ守っても結構だと思うが、一部の人たちはそれをルールだと言い張っている。

ルールを確認してもどこにも書いてないが、それはルールなんだそうだ。

図書館では静かにしているべきだというマナーもある。これはその通りだと思う。人は普通、本を読むときに雑音が聞こえると集中できない。読書というのはある程度以上の集中力を必要とする行為だし、図書館では勉強している人も多い。

それらの人々の邪魔をしないため、静かにさせるべきだろう。

私は、マナーだから守るべきだとは思っていない。他者に害を与えることは制限する方がいいという考え方だ。

そうしてみたとき、寿司の変わった食べ方は誰にも害を与えていない。いや、お店の人が米をゴミ箱に捨てるという1秒程度の行為を必要とするかも知れない。仕事を増やしているのだから迷惑だ、とも言える。

だがその論法で行くと、道ばたを歩いていて、正面に人が来てぶつかりそうになるとき、横にずれさせるのも迷惑をかけていることになるだろう。

私なんかは、だいたい自分が横にずれる。ずれたあと、明らかにお前わざと私の正面に来たよな? って言う場合にはむっとしてそのまま直進するが、基本的に私がよけることにしている。多分。私の方が運動能力が高いだろうし、動きがいい方がよけるのは当然だ。船でもそうなっていると聞く。

が、迷惑だと感じることはない。人によってはあるんだろうか? ゴミを捨てさせる行為すら迷惑行為なら、横によけさせる行為も迷惑行為になってしまう。んなアホな、と感じる。

また、ネタしか食べないなら、初めからシャリなしを注文すればいいという主張も見かけるが、これは実際に試みられている。というか、私が最初に読んだ記事はこっちだった。

あるお店で、客が「私ダイエット中だから、シャリはいらない」と注文した。それに対して、やっぱりいろいろと非難が集まっていた。よって、このやり方でも問題は解決しないことになる。

根の深い問題なので少しずつ書いていくことになるだろう


この問題は結局のところ、希望と義務のすり違えの一形態だと思うわけだが、こういうのは世の中にはたくさんある。

先日は「嫌いなAVだからなくすべき」という主張を取り扱ったし、前述の将棋のマナーも一例になる。あるいはしばらく前に話題になった、神戸の連続殺人犯の手記の出版を巡る騒動なども該当する。

自分の流儀を押しつけようとする人の話は、きっとこれからもたくさん扱っていくことになるだろう。そしてだいたいにおいて、私は押しつけることに対して批判的な態度をとると思う。

が、これは人間性の根源から発した、根の深い問題だと思うので、少しずつ進めていくことにしよう。




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