2017年9月2日土曜日

社会を構成する力としての承認欲求

人に認めてもらいたい、というのが承認欲求だ。これはたいてい誰にでもあるし、その思いはとても強い。

人々が何かをなすのは、なすことそのものよりも、それによって賞賛され、評価されることの方を望んでいるのが普通だ。

人々は承認欲求を満たすためにこそ活動するのであり、承認欲求の満たされ具合をコントロールするのが社会制度の本質と言ってもいいくらいだ。

社会不適合者達


私もその一員ではあるのだが、私個人は除外して読んでほしい。何事にも例外はある。

さて、社会不適合者というのは様々なパターンがあるが、その一つがネトゲ廃人であることに疑いはあるまい。オンラインゲームにはまって抜け出せず、リアルとの関わりから逃げ続けている人たちだ。

彼らはなぜネトゲにはまるのかと言えば、そこでは承認欲求が満たされるからだ。もし仮に、そこ以外の場所で彼らの承認欲求が満たされるのであれば、彼らはネトゲを楽しみはしても、廃人にはならないだろう。

彼らにとってゲームの世界は、「承認欲求を満たしてくれる、楽しい場所」ではなくて、「楽しくない現実からの逃避先」になる。ほかに居場所がないからそこに集まってしまう。

この図式は、ネトゲ廃人に限らない。不良少年達も同種の存在だ。

彼らの多くは、特別邪悪ではない。多少お行儀が悪いかも知れないが、そのほとんどはただ不従順なだけだ。その不従順さとても、周囲の人間からの不当な扱いの結果かも知れない。

彼らもまた一般社会では承認欲求が満たされない。親も教師も子供を褒めず、叱りつけてばかりいる。勉強ができないからか、言うことを聞かないからか、はたまた親もまた同じように育てられたからかは定かではないが、その子達の居場所がない。

だから彼らは別なグループに所属する。そこでは、一般社会とは別種の社会構造があり、承認欲求が満たされるからだ。

バカッターもいいサンプルになる。なぜ彼らは自らの悪行を公開するのか? 損得勘定の働く、合理的精神の持ち主だったらしないことでもやってのける。動機は単純。承認欲求を満たしてほしいから。

一般的に言って、社会不適合者が一般社会を離れてしまう理由は、満たされない承認欲求を満たすためと見ている。

社会適合者達


では、社会に適合している、まっとうな人間はどうかと言えば、実は本質的には変わりはない。

世の中で非常に大きな価値を与えられているのはお金だ。お金の最大の価値は、人々がほしがってくれること。お金持ちになることの最大の意義は、お金持ちであることを他者に褒めてもらうこと。羨望のまなざしで見られること。

近年、同様の価値を持ってきているのが、恋愛だ。恋愛の最大の価値は、恋愛の相手がいるということ。それも、できるだけ他者にうらやましがられるような相手がいるというその事実。

これらも結局のところ一言で言えば、承認欲求を満たすために人々から求められていることになる。そして人々は、これらを求め、日々あくせくしていることは諸君等もよくご存じだろう。

優等生は学校で承認欲求を満たされるから学校で活動するし、まともな社会人は仕事場で満たされるから、仕事で活動する。社会不適合者と違い、わざわざ落ちこぼれグループに入る必要がないことが大きな違いだ。

よって、人間というものはごく一部の変人を除けば、承認欲求を満たすために生きていることになる。

承認欲求が満たされないとどうなるのか


これまでの話から言って、承認欲求を満たされない人は、満たしてくれるグループを探すことになる。だが、それが都合よく見つかるとは限らない。

たとえば、仕事をしているが満たされない場合、ネトゲ廃人というグループには入りづらい。入ったが最後、収入が途絶えてしまう。年齢的に言って、不良グループにも入れないだろう。バカッターも不都合が多すぎる。

そのような社会的制約によって、どうしても承認欲求が満たされないとなれば、不満が蓄積していくことになる。いわゆる「社会に対する憎しみ」というものが積み重なっていく。

で、何かをしてしまう。

それが親なら、しつけと称して子供を虐待する。子供ならば言うことを聞かせられる。子供ならば自分の思い通りに動かせる。教師であれば、指導と称して子供を虐待できる。

彼らが子供を攻撃するのは、自分の思い通りにならないからだ。子供が自分の言うことを聞かないのは、子供が自分を偉大な存在だと認めていないからだ。だから腹を立てる。子供を育て、承認欲求を満たしてやるべき大人達が、子供によって承認欲求を満たしてもらおうとしている。

あるいはクレーマーになる。従業員は立場が弱い。お客さんにはあまり強く出られない。その上、何かしらの点で粗相のあったときにクレーマーになるんだ。ごく一面的に見れば、クレーマーにも言い分がある。そしてクレーマーは、自分が何か正しいことを言っているのだと認めてもらって満足する。

さらに度が進めば、「誰でもよかった」という事件が起きる。それが注目を浴びる最後の手段としてなのか、憎しみが上限を超えてしまったからなのかは、私にも分からない。

残念ながら


ということは、人々の承認欲求がある程度まで満たされれば、社会はもっと穏やかになることになる。しかし、そのような社会は実現できそうにない。

承認欲求を満たす方法の一つは、他者を貶めることだから。他者が承認されないような状態にすることもまた、自分の承認欲求を満たすことに繋がる。それ故にここには争いが起きる。

この世は競争社会だ。何を競っているのかと言えば、「ボクがどれだけほめてもらえるか」だ。賞賛というのは理屈の上では、無限に生じうる。しかし、実際は有限。みんな、なぜか出し渋る。減るもんでもないのに。

そして世の中は、その限られたパイを奪い合って過ごしている。「もっと俺様を大切にしろ」という想いを秘めて。


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