2017年9月6日水曜日

ニートが陥りやすい悩み。生まれた意味とか理由とか・・・そういう無駄なことについて(1)

これは別に、ニートに限定した話ではない。人々は人生論的な悩みを抱えてしまいがちだ。ニートが特別陥りやすいのは、単純に、悩みの種がほかより多いからだろう。

私はもう、そういった悩みとは無縁だけれども、最初からそうだったわけではない。おそらく、そういう悩みの経歴や、経験では、私はほとんどの人の大先輩に当たる。だから私から、少しばかり心得を手ほどきしてあげようと思う。

何のために生まれたのか。そして生きるのか


人間という生き物は、どうしてもそういうことを考えてしまうものだ。二千数百年前のギリシアにだって、人生の意味を問う哲学者はいた。

現代では、特に先進国では、文化も発展し、教育も行き届いて教養の下限が引き上げられている。人生の意味、とか言うものに思いを馳せたことが全くない人は、それほどいないだろう。

だが、その思いにとらわれ、固執して、悩みを深めてしまう人と、そうでない人はいる。この違いの原因は分からない。多分、いくつもの理由があるのだろう。ただ、その中の一つが、「教え込まれた『普通』との距離」であることは、間違いないとみている。

人々、特に平凡であること、普通であること、一般的であることを極度に志向しやすい日本人は、「普通」であることを求めている。それはもう、強迫観念のように。もちろん、厳密にはこれは日本人特有の特徴ではない。教科書にも出てくるように、リースマンの『孤独な群衆』で語られているごとく、アメリカ人だって自己を喪失する。

だが、日本人の普通への欲求は、群を抜いているように見える。

いい子にしなさい。みんなと仲良くしなさい。そのように教え込まれたまじめな子供は、みんなと仲良くするために、自分を偽ることになる。近年問題になった、キャラクターを演じることへの疲れというのがここで生まれてくる。

みんなと仲良くするために、みんなから期待されているキャラクターを演じなければならないと、そのような気持ちがあるのだろう。それをやめてしまうと、仲良くできなくなってしまうのではないか、と。

そうして、「普通」の「みんなと仲良くできる人間」であることから離れてしまうのを恐れ、同時に、そんなことをしなければならない自分に疑問を持つことになる。

いったい私は、誰なのだろう?

自分を見失った人間の次なる問いは、多分いつだってこれだ。

いったい、私は何のために生きているのだろう?

そして生まれてきた意味も問うことになる。

さぁ、終わりなき自己嫌悪の始まりだ。

生まれてきたことに、意味などない。あったとしても、どうでもいい


まず、答えから教えよう。これが答えだ。でも、そんなこと急に言われたって、信じられないだろう。少なくとも、自分にとっては大事なことなのだと、きっとそう言いたいに違いない。

だが、論理的に考えればそうなる。ならなければおかしい。これから、そういう話をする。

さて諸君。まず諸君等は、「私は何のために生まれたんだろう」と疑問に思うのだろう? その問いは当然、答えがあることを許容しているはずだ。もし、何人にもその答えなどないと思うなら、こんな問い自体を立てない。ならば、自分には答えがないかも知れないが、その答えを持っている人はいると、そう認めていることになる。

だからまず、その答えを持っている人を見てみようじゃないか。誰だ? 誰ならその答えを持っていそうだ? 歴史上の偉人か? 英雄か? 芸能人か? 資産家か? 誰でもいい、「この人はきっとこういうことのために生まれてきたんだ」と思える人をイメージしてくれ。

きっとそれは類い希なる優れた人間なのだろう。天才とも言える特別な人間に違いない。だからちょっと、そのイメージをファンタジーの域まで高めてしまおう。空想上の存在なら、それをどこまでも実現できるのだから。

そこで例として出したいのが、ミュウツーだ。ミュウツー知ってる? ポケットモンスターというゲーム、あるいはアニメなどに登場するモンスターの一種。遺伝子工学によって人間が作り出した、超強力な生物だ。

ま、ミュウツーじゃなくても何でもいい。重要なのは、人間が作り出したすごく優秀な存在、それを想定してくれれば何でもかまわない。

さて、ミュウツーは人間に作られた。ある目的を持って。だから、文字通りミュウツーには「生まれてきた意味がある」。

しかしその、ミュウツーを生み出した人間の都合というものは、ミュウツー自身にとっては鼻持ちならないものだった。「何で俺様が、おまえ等の都合につきあわされなきゃならんのか」ということで、人間に背き、創造主達を殺して脱走した。

ま、よくある物語だ。

さて、諸君等はこれに違和感を覚えるだろうか。ミュウツーは何が不満だったのか。優れた存在として作られ、生まれてきたことにも意味が与えられている。どうしてそれが幸せじゃないのかと。

本当にそう思うか? 本当に、「自分を勝手に生み出した者達が、自分に勝手に与えた意味に従って生きれば幸せだったはずだ」と、本当にそう思うか?

自分は誰なのか。何のために生まれ、何のために生きるのか。そんな風にアイデンティティを求めるような人間が、他者の操り人形として生きることを幸せだと思えるか?

思える場合は、ごめんなさい。私にはその感覚が全く理解できないので、その人達に語る言葉はない。ロボットとして作られ、ロボットとして生きることが幸せなら、なにも悩まずに生きる道はいくらでもあるように思えてしまう。君はただ、ブラック企業で働けばいい。それですぐに幸せになれる。

話を戻そう。普通は、そのような操り人形としての生き方を幸福とは感じないだろう。ならばその人は、「自分を生み出した意味」などというものに価値を見いだしていないと言うことになる。

ミュウツーの意思は、「私の生き方は私が決める」だ。誰かが勝手に決めたあるべき生き方などというものは、邪魔でしかない。

もし仮に、君にも「生んだ意味」「生まれてきた意味」なるものがあったとして、それに何の意味がある。ミュウツーの離反に共感できるならば、自分を生み出した人間の都合など、どうでもいいということも分かるだろう。


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