2017年9月23日土曜日

保証のない世界。確実なものなどこの世に存在しない

「世の中すべて分かってる系」にならないための特効薬で、私は「矛盾しない全ての可能性を認める」と書いた。

しかし、どんな可能性でも認めるとなれば、私はいったいどうやって行動すればいいのかと、疑問に思う人がいるかも知れない。

買い物に出かければ車にはねられるかも知れない。通り魔に襲われるかも知れない。ご飯を食べれば食中毒になる可能性もあるし、青酸カリが入っていないとも言い切れない。寝てる間に放火されない保証がどこにあるだろう?

すると私は核シェルターの無菌室にでも籠もっていなければならないという考えもありそうなんだが、それは全然違う。むしろ、話は全く逆になる。

行動のために確実性が必要な人々


何が起きるか分からない、だから何も起きそうにないところにいなければならないというのは、確実性を求める発想だ。

多くの人々にはこの傾向がある。失敗するかも知れないからやらない人は数多く、この種の人々は、結局何もしないということで非難を受ける。

人が何かをしようとすれば危険性や問題点を並べ上げ、うまくいかない可能性があるからやってはいけないという論法に終始する。

一方では逆のタイプもいる。

うまくいくかも知れないのだからやった方がいいという積極的な人々だ。この手の人々は時に賞賛を受けるが、人々は大事なことを見落としている。失敗する可能性はあったと言うことを。

下手なてっぽも数打ちゃ当たる。何人もの人間が、失敗してもおかしくないやり方をすれば、そのうち一部くらいは成功するだろう。その成功例だけを取り上げて、そういう挑戦を美化するような風潮もある。

また、この手の人々は、自分たちの挑戦が間違っている可能性を顧みない。自分を正しいと思い込んでいる。そのため、途中での軌道修正も難しく、ギャンブル的にうまくいったり行かなかったりということになる。

両者をまとめて端的に言い表すなら、「確実性がないと行動できない人と、行動するからには確実だと思い込む人」というところか。結局のところ、行動のために確実性が必要という点では、実は両者はよく似ていたりする。

この世に確実なものなど何もない


私はほとんどの可能性を認める。事故に遭う可能性も、通り魔に襲われる可能性も、全部認めた上で買い物に出かける。

今目の前に見えているモニターが幻で、こうして文章を入力していることが夢である可能性すら念頭に置いた上で、なおこうしてブログを書いている。

どうしてこんなことができるかと言えば、私は行動するために確実性を必要としない。

私の目に、耳に、肌に、認識に、それはそのようにあると知覚されている。この知覚が間違っている可能性は大いに認めるが、それはただの可能性でしかない。

もしかすると、今私が飲んだジュースはジュースじゃなかったかも知れない。得体の知れない液体だったかも知れないし、そもそもそこにジュースなどという物体はないのかも知れない。でも、あるように見えている。

だから、あるものとしてとりあえず扱ってみる。そうして接してみて、何か違和感を感じ、あれこれおかしいなってなるまでは、知覚の通りにあることを前提として付き合う。問題が起きたら、そのとき考える。

そういうわけで、私は不確実なものを不確実なままに扱うことができ、自分の行為を正当化することもなく、いつでも軌道修正する可能性を残したままで挑戦が可能だ。

こうでもしないと、私は何もできない。水も飲めないし、ご飯も食べられない。猫も撫でられない。

確実でないと行動できない人や、行動するからには確実だと思い込みたがる人々は、世の中に何か確実なものがあるとでも思っているのだろう。

私のように、世の中には何一つ確実なものなどないと考えていれば、確実なものなど必要としない。ありもしないものを必要として、どうするんだ。

だから私は矛盾しない全ての可能性を認められる。可能性だけならなんだってあり得るのだから、それらを認めても何の不都合もない。

ただ一つ。

デカルトが言った意味での、「我が存在する」ということについては確実だと見なしている。ただこの有名な、「我思う、故に我あり」という言葉は誤解を受けやすい概念なので、また別の機会に扱ってみたい。


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