2017年8月19日土曜日

「世の中すべて分かってる系」にならないための特効薬

なにやら、「世の中すべて分かってる系」なる人々がいるらしい。ちょっと、呼び名が長いので、カエル系とでも縮めて呼んでくれればありがたいんだが、これで定着してしまうんだろうか。

さて、私も世界を語っているくらいだから、世の中すべて分かってる系の一員だと思う人もとても多いと思う。だが、それについては断固として否定させてもらう。私は、この種の人々とは、最も遠いところにいる。

私は極端に論理的だ


ニコニコ動画のニュースに、こんなのがあった。


これまで書いてきた記事を読んでもらえば分かると思うが、私は常に論理的に積み重ねることを重視している。何かの考えを持つとき、だいたいは論理的な理由がある。もちろん、ない場合もある。

しかし、それだけでは容疑は晴れない。「論理学についての知識があるが故に、すべてを論理学の範疇で語ろうとしてしまうのではないか」という可能性はある。

実際のところ、これはそこまで強く否定する必要はない。まず、「論理学の範疇で語る」というのは表現からしておかしい。論理学は推論の形式しか扱わない学問だから、推論の形式ですべてを語るというのは、いったい何が語れるのか分からない。

ここでの正しい表現は、「すべてを論理的に語ろうとしてしまうのではないか」になるだろう。

そして、すべてを論理的に語るというのは、別にそれほど悪いことではない。それほど、はだ。だって、対象となる話題が何であれ、思い込みと決めつけで語るより、筋道立てて論理的に語ることは、ほとんどの場合で正しい態度だろう。

だから、そういう疑いであれば晴らさなくてもいい気もするが、一応晴らしておく。私はそういう意味ですら、すべてを自分の得意分野で語ろうなどとは思わない。

矛盾しないすべての可能性を認める


私はあまり、他者の意見や考えを否定しない。一応、これでも、否定は少ない方だ。するけどね。たくさんするよ。でもそれは、相手の主張が論理的に矛盾している場合に限られる。

私は性格的に思想的に、信条的に、矛盾する主張だけは認められない。だが、それ以外はすべて、一つの考え方として受け入れる用意がある。

そして世の中には、矛盾しない考え方などいくらでもある。「神が実在する」とか「地球にはエイリアンが入り込んでいる」とか、「明日地球が滅亡する」とかだ。こういった考え方を、私は受け入れないし全く信用しないが、間違っているかどうかは分からない。

間違っていることが確認されていないことは、間違っているとは言い切れないことだ。だから、それが正しい可能性は残り、それ故に私はそれを否定はしない。

こういう立場に立てば、自分の世界からすべてを見て、他者の判断にいちいちだめ出しするなんてことはするはずがない。その人の考え方が矛盾し、間違っていることが証明されない限り、それは判断の一つなのだから。

そういうわけで、私が「世の中すべて分かってる系」になることはあり得ない。

井の中の蛙大海を知らず


実は、世の中すべて分かってる系などという長ったらしい表現じゃなくても、昔から「井の中の蛙大海を知らず」というぴったりな言葉がある。だから私は、このタイプの人のことは、カエル系とか、カエル君と呼べばいいんじゃないかと思うのだが、あ、そうか・・・カエルに失礼だって苦情が来るのか。

まぁいい、カエルは別に怒らないよ。

さてこのカエル君達だが、何が問題かといえば、記事にもあるように他者を否定して回ることだ。井戸の中ではまぁまぁの存在であるため、自分と異なるタイプを自分より劣った存在だと見なしがちだ。

井戸の中のことしか知らないため、その中での価値判断しかできない。それは過剰な自信から来るとも言えるし、自信を守るための防衛機能ともいえる。一神教の教徒が、他の宗教を信じる人間を見ると、自分の信仰が傷つけられたように感じて敵対的になるのと同じ理屈だ。

他者にも自分と同じものを信じてもらうことで、自分もまた信じ続けることができる。それは実際のところ、自分でも信じ込めていないということの証なのだが、それを意識することは人生の否定だからできはしない。

さて、私は論理的にすべてを語ることすらしないと弁明した。何故かといえば、世の中にはそもそも論理的ではない主題はたくさんあるからだ。

なぜラーメンはおいしいのか。どうして猫はかわいいのか。好みのタイプは? あいつ気にくわないよね、腹立つよね。

こういった話の時にまで、神経細胞が形成するシナプスにおいて、神経伝達物質が・・・という話をしても意味がない。現状脳科学はすべてを解明していないし、できたとしても、こういう話題で求められているのは、そういうことではない。

私は疎いし、いまいち、そういう普通の会話というものは分からない。中卒ニートのコミュ障に、そういうの期待すんな。

だが、そういった、自分とはなじみのない話題や、そういうのを重んじ楽しんでいる人の存在を知っているし、それを楽しむことには何の問題もないことを把握している。人が何を好むかなど、人の勝手なのだから。

カエル君達の視点には、これが見えてないのではないかと思う。他者が何を望むかは他者自身が決めることであり、価値判断も他者が口を出すことではない。そこにまで口を出そうとするから、カエルになってしまう。

というわけで、カエルに近いはずの私ですらカエルとは最も遠いところにいられる根源、「矛盾しないすべての可能性を認める」ということこそが、カエルにならずにすむ特効薬ということになる。


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