2017年10月12日木曜日

マスターアジアの憂鬱。人間も自然の一部だという陳腐な慰め

私はかつて自然崇拝者だった。自然を神聖なものと考えていた。

物語にも自然崇拝者というのは出てくる。基本的に、なんであれ極端な考え方の人間というのは騒動を起こすのだが、やはり自然崇拝者というのも例外ではない。

ただ、根は悪党ではない。少なくとも、私利私欲のためではなく、理想や正義、信仰によって起こすことなので、共感する人間がいないわけではないだろう。

例えばGガンダムに出てくるマスターアジアなどもその一人だ。その強烈な個性と思想故に、ただのやられ役としてではなく、むしろ第二の主人公のように愛されている。

最終的に、「人間もまた自然の一部だ」という思想に触れて、改心して死んでいくのだが、事はそれほど単純ではない。こんな言葉では救われない。

自然崇拝者が人間を憎むのは自然な成り行き


私がそうであったように、マスターアジアも人間を自然を破壊する有害な存在と認識していた。自然というのは調和がとれており、全てが自然にとってよい姿にあるにもかかわらず、ただ一つ、人間だけが特殊な存在であり、母なる自然を汚している。

だから、人間を滅ぼそう。人間さえ存在しなければ、自然はあるべき姿を保っていられるのだ。自然崇拝者がそう考えるのは、ごく自然だろう。

マスターアジアもそう考えたからこそ、人間を滅ぼすことにした。この根底にあるのは人間が特別な存在であること。人間だけが、自然から剥離した存在であること。そういう前提だ。

そこに「人間も自然の一部」という答えが入り込めば、考え方を変えざるを得ない。それはそう。変えるしかない。だが、どう変えるべきかは、まだ決まっていない。

自然的なもの。あまりにも自然的なもの


いずれはもっと詳しく書こうと思うが、私はもはや人間を特別だとは考えていない。人間は徹頭徹尾動物だ。何も特別なことのない、ただの動物。自然の生き物。知能が高いだけの猿。

まさしく自然の一部であり、それどころか、最も自然的なものだとすら思える。自然という言葉で表しているのが、自然環境のことなのか、自然淘汰のことなのかで違ってくるが、自然環境が自然淘汰の子供だとしよう。

自然環境をこのような姿にあらしめたのは、自然淘汰の力に他ならないのだから。だとすれば、人間を始め、動植物は自然環境の子供達と言うことになる。この場合、人間は母以上に、祖母に似ている。

ありのままの自然環境には、自然淘汰の及ばない、厳密には及んでいるが、及ばなかったのだろうかと思えるような部分がある。自然の全ての場所で、淘汰圧がそれほど強いわけではないからだ。

だが、人間社会は淘汰圧が強い。その他の動物は、人間ほど組織的に戦争をしない。人間のように経済競争もしない。人間社会は、至る所で環境に適したものが繁栄し、適さなかったものが衰亡する。

人間同士の関係だけでも、自然淘汰の結末を観察できる。しかも、数十万年とか数百万年という時間をかけず、たかだか数十年、数百年程度で、だ。

まさに自然淘汰の申し子。自然淘汰が生み出した、ミニ自然淘汰だ。

だから私は人間を、ニーチェに倣って「自然的なもの。あまりにも自然的なもの」と呼んでいる。

人間が自然そのものであるなら、自然とは何だ?


さて、自然を守るために人間を滅ぼそうとするくらいだ、人間の営みを美しいとは感じなかったのだろう。それは分かる。人間社会にはびこる様々な悪や不徳を見る限り、これを醜いと感じるのは普通だ。

だが、人間が自然の一部であり、自然から逸脱した存在でないという結論を受け入れたのなら、では、自然とは何だろうか?

自然崇拝者は普通、自然を神聖なものだと考えている。それは美しく、善なるものでもあると無条件に思い込んでいる。ところが、人間も自然だという。

だが、人間の姿は美しいとは思えない。人間が自然であると言うことは、自然の姿は、必ずしも美しいものではないことになる。ならば、神聖とも限らず、善とも限らないのではないか。

むしろ人間が自然の生み出したものであるならば、このようなものを生み出してしまう自然こそが元凶ではないのか。人間が敵ではないならば、自然こそが魔王ではないとどうして言える?

幸いなことに、マスターアジアはこの問いに悩まされることはなかった。理由は二つある。

一つは、「人間も自然の一部だ」という陳腐な言葉に騙されてすぐ、この世を去った。それが何を意味するのか、思い悩む時間がなかった。

もう一つは、物語の登場人物だからだ。所詮、架空の存在にすぎない。物語の作者がそういうことで悩まさせようとしなければ、何も悩みはしない。作り話だからね。

私の場合はどうだったか? 自然崇拝者だった私が、「人間も自然の一部だ」という答えを受け入れたとき、私はどう思ったのか?

実は、私には珍しく、思考停止をした。意図的に、考えることをやめた。私はかつて自然崇拝者だった。一度は崇め、仕えたものに、今度は背くというのは望まなかった。

仮に自然が邪悪の根源だったとしても、自然を滅ぼすべきだという考えを持ちたくなかった。やはり、私の思想の中心には猫がいる。私は猫好きだ。

もし、自然が邪悪だから自然と闘うべきだというのなら、当然その一部である猫とも戦わなければならないだろう。それはいやだった。人間が相手ならばやってやろう。だが、猫は攻撃できない。しかし、それでは筋が通せない。

だから私は、中立を守ることにした。


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