2017年10月20日金曜日

人間性の根源としての感情。意志や理性よりも強いもの(2)

感情・意志・理性、倫理と欲求。人間の心的五大機能のうち、どれが人間性の中核を担っているのかという話の続き。

まだの人は、先に人間性の根源としての感情。意志や理性よりも強いもの(1)を読んでおいてほしい。

理性は地図。意志はエンジン


私は理性的に考えれば真実にたどり着くと考えていた。しかしそうではない。理性自体は、一歩も前に進まない。真実を解き明かす力は理性に備わるが、真実を解き明かそうとする力が理性には欠けている。

この点では、倫理も役に立たない。倫理というのは、実のところ、感情の下部機能だ。感情が先にあり、そこから倫理が生まれる。逆ではない。

なぜ人を殺してはいけないのかというのは解決不能な問いの一つだが、それに対する人々の回答は、理性や感情に根ざしている。それを認めたら大変なことになるだろ、とか、自分が殺されるのはいやだろうとかだ。

「それを認めたら大変なことになるだろ」は、理性的な判断だ。よって、倫理は理性からも生まれると思われるかも知れない。が、それは違う。

「それを認めたら大変なことになる」ことが事実だとして、理性はそれを拒まない。理性は、「それを認めることで大変なことが起こる」ことを正しく判断するが、それに対して「それは嫌だ」というのは感情の仕事だ。感情がなければ、「うん、起きるよ。それで?」と答えることができる。

感情が働かない限り、倫理は形成されない。よって、真実を解き明かそうとする力の根源も、倫理には求められない。

意志はそもそも方向を示さない。意志はただ進むだけ。車でいえば駆動系を司る。タイヤやエンジンなど、前に進むための機能が意志だ。

理性は地図に当たる。どこの道をどう行けばどこにたどり着くのか。どこへ行くためにはどこを通るのが近道なのか。それは理性が教えてくれる。

だが、ここにはまだ、乗り手が欠けている。運転手のいない車は動かない。動いたら壊れてる。

感情とは、車の目的地を示すものだ。車が向かうべき先とは、乗り手の向かいたい場所だ。車は乗り手を運んではくれるが、行き先は乗り手が決める。行き先への道は地図が示す。

そして、倫理や欲求などが入り交じり、風景のいい道を通りたいとか、最短ルートを選ぶべきだとかが混ざり合い、アクセルやブレーキを踏み、ハンドルを操作することになる。倫理と欲求がアクセルやブレーキ、ハンドルに相当するが、このあたりの関係は複雑なので、これ以上分解できない。

さて、向かいたい場所を決めるのは欲求のようにも思う。間違ってはいない。だが、人がどこに行きたがるかを決めるのは、感情だ。海が好きだから、海に行きたいと思うのだ。安全なところが好きだから、危険な場所から逃れたいと思うのだ。

目的地を定めているのは、感情ということになる。

感情のない人間は、なにもできない


ある動物好きがいるとしよう。その人が動物を助けるとしたら、それはどのような心的機能が必要だろうか。

まず、意志が絶対に必要だ。何かしらの行為は意志によってしかなされ得ないので(自律神経によるものや、反射によるものは別として)意志は当然必要となる。

さて、倫理は必要だろうか? いや、必要ない。動物を助けるべきであると言う意識がなくても、動物を助けることはあり得る。ご飯を食べるべきであるという意識がなくても、ご飯を食べたいと思う人は食べるだろう。

理性は必要だろうか。これも不要だろう。動物を助けることがどのような意味を持つのかを判断する能力があろうと無かろうと、行為には関係が無い。どうすれば助けられるかを考えるのは理性の働きだから、助けるという行為の成功率には関わるだろうが。

さて、欲求はどうかといえば、これは必要だ。助けたいと思うからこそ助けるのだろう。助けたいと思わないのならば、助ける理由がない。

そういう意味では、感情がなくても助けられる。欲求さえ生じてしまえば、行為を誘発できる。

しかし、欲求の根源は感情だ。

人が動物を救いたいと思うとき、それは多くの場合、動物が好きだからだろう。あるいは、あくまでもビジネスとして救いたいと思っている場合もあるかも知れないが、その人はお金が好きなのだろう。いずれの場合でも、何か好きなものがあるからこそ、そこに向かい近づくための欲求が生じる。

もし初めから感情がない人がいたとしたら、その人が何かを救おうとするとは思えない。好きなものが傷つくのが辛いから助けたいと思うのであり、嫌いなものがのさばるのが辛いから戦いたいと思うのだ。

好きも嫌いも持ち合わせない何者かがいたとしたら、その人は何もしない。何も欲せず、何もなそうとしないだろう。何がどうなろうと、それは別に好きでも嫌いでもないことなのだから。

別な記事で書いてもよいが、好きの反対は嫌いだ。無関心とする考え方もあるが、私は否定的だ。好き嫌いの軸と、関心の強さの軸は十字に交わっていると考えるべきだろう。

私の考え方では、好きでも嫌いでもないものが、無関心なものだ。感情がない人間にとっては、全てが無関心なものとなる。何ものにも関心を持たない人が、いったい何をするというのだろうか。

意志の特殊性


さて、感情が人間性の根源を形成するという話をしたが、意志が特殊であることに気づかれただろうか。

行為が全て意志によるものである以上、意志こそが人間性の本質だと考えることもできる。が、私はそれでも感情を上位に置く。

一つは、意志は方向を指示しないからだ。もともと理性の信奉者であった私は、人間に生きる道筋を示す力を中心においていた。その流れから行けば、道を示さない意志は中心に置きにくい。

もう一つは、意志は常に使われる立場にある。意志だけが勝手に動き出し、何かをなすことはない。欲求か倫理に使われるまで、意志は働かない。欲求も倫理も感情の下部機能と見なしているので、意志は感情の執行機関でしかない。

それ故に、私は感情を君主と見なしている。

感情が劉備。意志が関羽・張飛。理性が諸葛亮。そんな感じ。




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