2017年10月28日土曜日

統計に注意-傾向と原因の問題。そうなる人とそうならない人の差

世の中では様々な出来事が起きる。その原因を突き止めるのはとても大変だ。

別な機会にまた記事にしようと思うが、究極的には原因を明らかにすることは不可能と言っていい。リンゴが木から落ちる原因を重力に求めるのが普通だが、重力の存在を証明したという話は知らない。

突飛な話ではあるが、実際のところ重力などという当たり前のものすら、本当にあるのかどうかは分かっていない。そうしてみると、物事の原因などというものは、そう簡単に分かるようなものではないことになる。

が、今回はその問題そのものではなく、統計的データから原因を知ろうとすることの難しさについて語ってみる。

どうしてその人はそうなったのか


ある事件が起きた。その犯人には家庭に問題を抱えていたかも知れないし、成長過程で過度のストレスを経験したかも知れない。

しかし人々は言う。そんなものは理由にならないと。なぜならば、「同じような境遇の人、あるいはもっと大変な境遇の人でも、立派に生きている人がいる」からだ。

もしその境遇のせいで人が犯罪者になるのであれば、同じ境遇の人全員が犯罪者になっていなければならない。ところがそうではない。ということは、境遇は問題ではなかったということになる。よって境遇は事件の原因ではない。

個人の劣悪さを、境遇のせいにするな、ということになる。

このような考え方はかなり一般的だろう。だいたいにおいて、他者の辛い境遇に対する同情を拒絶するため、犯罪者を非難するために頻繁に用いられる。しかし、この考え方は思慮が足りない。

それでは規制をなくさねばならない


前述の考え方は、一面的には筋が通っているが、そのような考え方では社会は破綻してしまう。

なぜならば、「飲酒運転をしたからといって、全員が事故を起こすわけではない」。「銃を持ったからといって、全員が乱射するわけではない」。ということは、飲酒運転は事故の原因ではない。銃も事件の原因ではない。

ならばどうして飲酒運転や銃の所持を規制するのだろうか。飲酒のせいで事故が起きたと見なすからこそ規制するのだろう。しかし、酒を飲んで運転した全ての人が事故を起こすわけではないのだから、これも飲酒は事故の原因ではないと見なすべきではないだろうか。

が、普通はそんな考え方はしない。まともな脳みそがあれば、酒を飲んで運転すれば、事故を起こす危険性が高まるということが理解できる。常にそうなるわけではないことを認めた上で、やはり発生頻度の低下のために規制は必要だと考えるだろう。

これが正常な判断であり、正しい考え方のはずだ。

物事は全か無かではない


ここで人々の態度は二つに分かれている。多くの場合、同じ人物の中で、犯罪者に対しては「常にそうなるわけではないのだから境遇は原因ではない」と言い、規制に対しては「そうなる場合が増えるのだから飲酒は事故の原因だ」と主張する。

これはダブルスタンダードというものだ。一方では「いつもそうとは限らないから」という論法を使い、別なときには「いつもそうとは限らないけど」という論法を使っている。

私はすでに述べたように、後者の態度が正しいと考えている。いつもそうとは限らなくても、その条件は結果に対して有意な差を及ぼしている。そのような条件の違いが、ある結果を引き起こす場合が多いならば、その違いを原因と見なしてしまう方がいい。

これを拒絶して、飲酒も薬物所持も、何もかもの規制を否定するよりは、ずっとマシな社会になるはずだ。

このような問題を考える場合に必要なのは、その条件が結果に対してどの程度の差を生じさせるのか、だ。「常に」とか100%の確率か否かではない。その他諸々の様々な諸条件と比較して、どの程度差があるのかだ。

例えば、我々は朝ご飯に何を食べたかで犯罪の発生頻度が大きく変化するとは見なさないだろう。だが、統計を取れば朝ご飯に何を食べたときに発生頻度が高いとか低いといった結果は出てくるはずだ。

それがほんのわずかな、無視できる程度の差だとしても。

もし、ある犯罪者の境遇が、朝ご飯に何を食べるか、というのと同程度にしか発生頻度に対して影響を与えていないのであれば、我々はその境遇を無視することができる。

それを無視しないということは、朝ご飯に何を食べるかも無視できないということになってしまうから。

このように考えていき、その境遇が事件の発生頻度に対して無視できない程度の影響を与えていると見なせる場合は、酌量が必要になる。

物事は全か無か、0100かではない。30とか50707575.1そういうちょっとずつ違う微妙な変化によって成り立っている。

もちろん、ではどこに境界線を引くか、という問題はある。72に線を引くか? なぜ7173ではない? 71.9だっていいんじゃないか? だって0.1しか違わないんだぞ? じゃあ71.8だっていいよな。0.1しか違わないんだから。

この論法を進めていくと、0まで行き着いてしまう。

結局こういった境界線の議論は、明確な地点を指定できない。あとは銘々に、人々が個人的な好みでなんとなくこの辺、というラインを引くしかない。

それは仕方ないと思っている。それが人間社会だ。

ただ少なくとも、0100かでしか判断できないやり方はまずい。しかし世の中の人々の多くは、全か無かでしか判断できない人の多いこと。困ったことだ。




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