2017年10月14日土曜日

知性の価値。頭の悪い人間に価値はあるのか

私はいくぶん口が悪い。すごく悪いだろ、と言いたくなる人もいるかも知れないが、私はそれほど罵倒はしない。

私が直接悪口を言うのは、考え方を間違っている相手ではない。間違った考え方を正しいと思い込み、他者にもそれを押しつけようとしたり、他者を非難していたりする場合に限られる。私の基本理念は「人は間違いを犯すもの」だから、失敗を責めることはない。

しかしそういう姿勢は端からは分からないものだし、私が知性を重んじていることは見れば分かるだろう。だから、頭のよくない人間に対して、私が何か悪い印象を持っているのではないか、馬鹿にしているのではないかと思うことは自然な流れだと思う。

実際、私の従兄弟の子供にもそのように思われていたようだ。そいつは確かにあまり頭はよろしくない。学業は全然だったし、いろいろと基本的な物事を知らない。知性においては、私には遠く及ばないだろう。

だが、だからといって馬鹿にしたことはない。これは本当だ。

知性とは何か


まず先に、知性とは何なのか、それを決めておこう。この言葉は、様々な意味で解釈されている。テストで計れるものだと考える人もいれば、計れないものだと考える人もいる。

私はこの言葉を「物事を純粋に、正しく判断する能力」と定義している。「純粋に」というのは曖昧な言葉だろう。

これは、「損得勘定なしに」とか「自分の立場から離れて」とか、余計なことを排除することを意味している。「客観的に」と言い換えてもいい。

例えば世の中では、正しいことと得になることは違う。内部告発というものがある。不正を告発して、悪を知らしめて罰するのはよいことだと思うが、それによって損をする人にとってはそうでもない。内部告発をするようなやつは悪人だ。

こういう、自分の立場によって態度を変えず、道理によって正しく判断する能力を、知性と呼んでいる。

知性は能力の一種である


私は知性を重んじる。自らにも、知性が備わることを祈っている。知性以上にほしい能力などない。あるとすれば、猫に好かれる能力だろうか。とはいえ、それは能力というか、適正というか、少なくとも私がどうこうするものではないように思う。

しかしながら、知性というのは人間が習得しうる能力のうちの一つにすぎない。人間は様々な能力を身につけられる。

歌唱の能力、野球やサッカーなどのスポーツの能力、将棋や囲碁、麻雀などのテーブルゲームの能力もあればFPSや格闘ゲームなどの能力もあるし、記憶力とか、説得力とか、ごまかし力とか、演技力とか、とても書き出せないくらいのたくさんの能力がある。

そういった数限りなくある能力のうちの一つが、知性だ。

私は、知性が他の能力よりも上位にあると思っているのではない。知性こそが人間が身につける最上の能力であり、その他の能力は知性より下等なのだと、そう言いたいわけではない。

ただし、私は知性をその他の能力よりも上位においている。この言葉は矛盾していない。ただし、矛盾しているようにも感じられるかも知れない。

ものの好き嫌いは個人の自由だ


近頃は好き嫌いを表明しづらい時代になっている。このことは望ましくないと見ているので、記事にしようと考えている。

例えば、私がラーメンが好きだとしよう。私は、まずいラーメンを一度しか食べたことがない。一部の人で流行っているらしい、ニンニクが多いラーメンを食べたことがあるのだが、まずかった。ラーメンってこんなにまずく作れるものなんだ、と驚いた。

が、基本的にラーメンはハズレが少ないと考えられているだろう。これはカレーも同様だ。プロ棋士の森内九段なども、カレーはハズレが少ないからと言うことで、タイトル戦でしょっちゅう食べていた。おかげで、カレーと一緒に広告の写真に載ることになったほどだ。

私はカレーも好きなので、ここからは仮定の話になる。例えば私がラーメンよりもカレーを上位に置いたとしよう。「私はカレーよりもラーメンが好きだから、ラーメンの方が食べたい」と。

そのとき人々は、それを不当だと言うのだろうか? 言わないだろう。食の好みは人それぞれなのだから。食べたいものを食べればいい。

同じ事だ。能力の好みもそれぞれなのだから、好きなものを求めればいい。

サッカー選手はサッカーの能力を何よりも求めればいいし、野球選手は野球の能力を求めればいい。プロ棋士は将棋や囲碁を、保育士は子供を扱う能力を、画家は画力をと、それぞれが自分のほしい能力を上位において、まずそれを求めればよい。

全部平等に求めなければならない理由などない。他者に強制することさえなければ、個人はそれぞれ好きにしてよい。

ただ、人にお勧めすることに問題があるわけではない。

チーム戦のスポーツなどは、運動にもなるし、チームプレーの練習にもなる。だから学校教育に取り入れるのもいいはずだと主張することは、理に叶っている。

将棋は落ち着いて相手の考えを読み取らなければ勝てないのだから、そういう落ち着きを身につけさせるのによいのではないかと、そんな主張もあるかも知れない。それもいいだろう。

それと同じように、知性はあらゆる知的活動を助けてくれる。あらゆる判断においてその正確性を高めてくれるのだから、まず知性を高める訓練を施すのは重要だと私が言っても、別に今までの主張と矛盾するわけではないだろう。

私は私の理念に基づいて、知性を最上位に置く。他者は他者の理念に基づいて、何かを最上位に置けばいい。

私にとって、知性の価値とはそういうものだ。


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