2017年10月19日木曜日

人間性の根源としての感情。意志や理性よりも強いもの(1)

人の心的機能を大きく三つに分けると、感情・意志・理性になる。分類しきれないものがあるので、倫理と欲求を付け足すと、五大機能となる。

私はいたって理性的な人間であり、常に判断を重視し、冷静であることが重要だと思っている。冷静さとは、感情に乱されず、理性的に判断できることをいうのだから、私にとって理性が重要な者なのは当然だろう。

しかしながら、私はこれら五大機能において、最も強い、根源的な力は感情だと考えている。言わば、感情を立憲君主として、四天王がそれを補佐するような形だ。

とりあえずまず、言葉を定義しておこう


感情の優位性を語る前に、それぞれの言葉の意味を決めておいた方がいいだろう。ある程度曖昧に使われる言葉なので、すれ違いが起きるかも知れない。

感情とは、喜怒哀楽という言葉で表される。好き嫌い、でもいい。ゲームをしていてふざくんなくそがっと言ってコントローラーを投げるのは、怒りの感情によるものだ。私のことじゃないよ? 私はここしばらく、コントローラーを使うゲームをしてないから。

意志とは、何かをなそうという気持ちのことをいう。冬場、コタツでぬくぬくしてしまうと、なかなか表に出られない。そこで、そろそろ這い出さなければ、といって体を引きずるように起こすのは、意志の力だ。

理性とは、何かを正しく判断しようとする力のことをいう。結果的に正しいか間違っているかは問題ではない。頭で考え、正しい結論を出せるように努力しているとき、それは理性の力が働いている。

欲求は、何かを欲することをいう。物欲や睡眠欲など、何かをしたい、何かがほしいとか。この形態は多岐にわたり、承認欲求や、破壊衝動(何かを壊したい)とか、厳罰主義(犯罪者を厳しく罰したい)などがある。

倫理は、べき論を扱う。何かをするべきだとか、せざるべきだなど、どうあるべきかという指標を定めている。人を殺してはいけませんとか、迷惑をかけてはいけませんとか、ご飯を残してはいけませんなどなど、さまざまなルールやしきたりとして形成されている。

五大機能は別個に働くものではない


以上の機能は、それぞれが独自に働くわけではない。

朝、登校や出勤前にコタツでぬくぬくしているとしよう。

「あぁ今日は学校行きたくないな」というのは欲求。

「でも、行かないと怒られるしな」というのは理性。

「いい学校に行っていい仕事に就かないといけないよな」というのは倫理。

「でも学校嫌いなんだよな」というのは感情。

「じゃあそろそろ出かけよう」というのは意志。

このように、人の行動はいくつもの心的機能が連携して作り出されている。ある行為が、単純に感情的にだけ行われる場面というのは、あまりない。激高してヒステリーを起こしている場合とかに限られる。

私は理性の信奉者だった


かつて私は、理性の信奉者だった。人間に一番必要な心的機能は、理性だと考えていた。人は常に理性的であらねばならず、理性的であるということが、人間として相応しいことだと信じていた。

意志は理性の執行者として存在を許した。意志なくしては、いかなる理性も現実世界に対して影響を与え得ないのだから。また、倫理も正しい姿をしていれば、人間にとって必要なものだろうから、それが存在してもよい。正しい倫理かどうかの判断は、理性がしてくれる。

一方、感情と欲求は邪魔な存在だった。これらは瞬間に存在している。真実は永遠であり、真実の探求者である理性は永遠に属している。しかし、感情や欲求はその場その場で生まれたり消えたりするようなものだ。

永遠に属すものの方が、刹那的なものよりも高等なのは自明だと思っていた。

感情などがあるから、人を好き嫌いで攻撃する。欲求などがあるから不正が起きる。ならば、人間世界からこれらを取り除けば、世界はきっとよくなるだろうというのが当時の理屈だった。部分的にみれば、今でもこれが間違っているとは思わない。

しかし、全体的にみると、やはりまだ思慮が浅いように思われる。



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