2017年10月7日土曜日

ギリシア人の物語-古代ギリシアの短距離走(1)

今年の夏、暑い時期は図書館に避難した。予想最高気温35度とか言われると、エアコンのない家にいるのはつらいものがある。

今時、扇風機とコタツだけで夏と冬をやり過ごす人は、あまり多くはないようだ。

その時期に、『ギリシア人の物語』を読んだ。これは『ローマ人の物語』の作者である塩野七生が書いたもので、まだ二巻までしか出ていないようだ。ローマ人の物語は、確か一通り読んだと思う。終盤、ごちゃごちゃしすぎていて、頭に入っていないのだが。

なかなか面白かったので、ここで紹介してみようと思う。

二巻までの全体評価


塩野七生は歴史学者ではないので、内容の歴史的正確性はどれほどのものかは分からない。個人的な感想については感想だと断って書いてあるので、『三国志演義』ほど作り話で占められているということはないだろう。

ただ、逸話の一つを事実と断定して書いてある場合はあるのかも知れない。wikipediaなどで調べてみても、まだ断定されていないような部分はある。全く根拠がないことはないものの、どこまで事実かについては多少の注意は必要だろう。

2巻までを読んでの印象としては、ギリシア、特にアテネを中心としたギリシアは、短期間に隆盛し、完成し、そして衰退した。地中海地方の覇者となるまでに時間がかかり、覇者となってからも長い間君臨したローマとはタイプが違った。

それだけに、ギリシア人の物語は全三巻が予定されており、あと一巻で完結となる。全十五巻を要したローマとはボリュームが違う。ギリシアは、残念ながら書くことが少ないらしい。その代わり、読む方としては助かる。次から次へ新しいことが起きるから、飽きずに読める。

ローマ人の物語は、どうしても眠くなることが多かった。三巻とか、グラックス兄弟とマリウスとスラの話以外覚えてない。

第一巻はアテネの民主制が完成に向かう時期


第一巻の主要人物は、ソロンから始まりテミストクレスに終わる。どの時期でも、アテネが徐々に民衆の力を有効活用できる方へと向かったのが分かる。

アテネと言えば民主制であり、民主制と言えばアテネを思い浮かべる。そしてアテネと言えば海軍が有名であり、古代ギリシア最強の海軍国としてアテネを思い浮かべるのが普通だろう。そしてギリシアは海運の文化でもあり、海運は交易に繋がることから、アテネと交易、アテネとお金持ちにも繋がっていく。

これらのイメージは間違いではない。ただ、そこで思い浮かべているのは、一巻後半から二巻にかけてのアテネに限定される。一巻前半のアテネは、まだそれほど特別な規模の海軍を保有していなかったし、経済力もそこまで優れたものではなかった。

アテネの民主制も一代で完成したものではなく、ソロンから始めて、徐々に改良されていき、テミストクレスの時代に一段落を迎えたようだ。

戦争のための国民主権


日本人だとちょっと思い浮かびにくいかも知れないが、憲法というのは戦争のためにも必要だ。憲法のない国はもう、おそらく戦争に勝つことはできないだろう。少なくとも、同レベルの国力同士でぶつかったら、憲法のある国が勝つ。

憲法が戦争に必要だと認識され始めたのは、ナポレオンの時代だった。フランス帝国が憲法を制定し、ナポレオンの率いる部隊は精強だった。一般の兵士にとって、統治国は問題ではない。どっちが勝っても、自分たちにはあまり関係のないことだった。

だが、憲法によって権利を保障された国民でいることは、そうでない国の国民でいるよりも有利なことだ。人々は、嫌々ながらに戦わせられるのではなく、自分の利益のために戦えるようになった。

それでも、あの時代はまだ憲法の重要性はそこまでではない。結局は戦列歩兵で戦った時代だ。剣や槍で戦う兵士と同じように密集し、交互に鉄砲を撃ち合うような、今見ると不思議な感覚を呼び起こすスタイルだ。

現代ではもう通用しない。機関銃によって、歩兵の密集突撃は無力化され、榴弾によって一発で密集陣は粉砕される時代となった。今時、密集隊形なんて組むだけ無駄だ。

だが、密集しないと言うことは散会するわけだが、憲法のない国ではそれができない。昔から歩兵を一カ所に集めて戦わせるのは、戦闘力の問題もあったが、監視の意味もあった。一人の仕官が兵士達の脱走を見張るには、密集させておく必要があった。

一人一人が潜伏し、独立的に行動すると言うことは、監視の目を逃れやすいと言うことでもある。いつでも脱走できる、とも言える。憲法のない国でそれをやったら、戦闘の混乱に紛れて、兵士がいなくなるだろう。

その意味で、古代ギリシアのアテネが民主制を推し進め、最下層民の力まで活用可能にしたのは、戦闘力の点でも有益だったはずだ。

結局ペルシアからの大軍団を追い返したのはアテネ海軍の活躍であり、アテネ海軍の背骨を担っていたのは最下層民だったのだから。

ただし、アテネ市民としての最下層民であって、ここには奴隷は含まない。ギリシアは、奴隷を戦わせる文化ではなかった。

二度のペルシア撃退


この時期のギリシアは、ペルシア軍の攻撃を、二度にわたって撃退している。一度目の攻撃は、比較的小規模だった。

だが、二度目の侵略は大規模であり、ギリシア諸国は滅亡に瀕していた。ペルシアの軍勢は500万を超えると、同時代人のヘロドトスが記しているが、さすがにこれはないだろうと言われている。

ヘロドトスが外国語の単位を間違えて、10倍で受け取ったんじゃないか、という話もある。事実は不明だが、230万くらいの軍勢と見るのが妥当という意見もあった。

この戦役最後の戦いであるプラタイアの会戦では、ペルシア軍30万に対して、ギリシア連合軍が10万ほどとされている。何にせよ、一歩間違えばギリシアが征服されかねない規模だったのは間違いない。

この戦争で特に名をあげたのが、スパルタとアテネだった。スパルタは300人で峠を守ったレオニダスが有名だし、戦争に終止符を打ったパウサニアスもいる。そしてアテネにはテミストクレス。

これら英雄が力を合わせて戦い、ペルシア軍を壊滅させ、そして共に祖国に捨てられた。

パウサニアスは独裁者として危険視されて抹殺され、テミストクレスはパウサニアスと結んでいたのではないかと疑われて逃走の果て、ペルシアの将軍となった。


次:ギリシア人の物語-古代ギリシアの短距離走(2)

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