2017年10月4日水曜日

進化と適応について。適応進化という概念の難しさ(2)

進化と適応について。適応進化という概念の難しさ(1)で、進化と適応についての簡単な説明を済ませた。

それでは、適応進化について語ってみよう。そして、適応とは何か。いつ適応か否かが判断できるのか、疑問を呈してみる。

適応進化とは何か


適応進化という言葉がある。これは、人々が一般的に使っている意味での進化に近い。すなわち、環境に適した、有利な、より優れた形質を持つような形の進化のことだ。適応度が上昇するような進化とも言える。

改めて確認しておくが、この意味での進化が退化であることはあり得る。ない方が適応度が上昇するような器官が単純化、縮小化するような適応進化は、退化なのだから。ただし、だからと言ってこれを適応退化と呼ぶ例は見たことはない。

さて、おそらくだが、適応進化という概念にはそれほど疑問も持たずに受け入れられたのではないだろうか。別に、それほど奇抜な概念ではない。あーそうなんだ、で終わってしまってもよさそうだ。だが、私はこれが昔から気になっている。

ある進化が適応進化であると判断できるのは、いつなのだろうか、と。

例えばの話、こんな進化が起きたとしよう


ある森に、ある生物種Xが生息していたとする。それが今まで何を食べ、どのように暮らしていたのかは不定のままにしておく。あまり関係のないことだから。

さて、Xが進化したとしよう。それは体の多岐にわたる進化かも知れない。口が進化し、歯が進化し、食道が進化し、胃も腸も排泄器官も、ありとあらゆるところが進化したかも知れない。その結果、Xがある種の木の実を食べられるようになったとする。

その木の実はXの生息地にはありふれていて、食べたいだけ食べられる。他にその木の実を食べるライバルもいなかったため、Xだけがそれを活用して栄養を得、生存に必要なエネルギーを容易く確保したとしよう。

当然ながら食べ物があふれているのだからXはたくさんの子供が作れる。子供もご飯に困らないから成長しやすい。適応度が飛躍的に高まり、環境中で一気に数を増やすだろう。

ここまで見れば間違いなく、Xがその木の実を食べられるようになったことは適応進化だ。これを適応進化と呼ばないなら、この言葉の出てくる場面などありはしない。

だが、塞翁が馬、という言葉がある。

その進化のせいで絶滅しないという保証がどこにあるのだろうか


Xが繁栄を誇った後、新種の植物が群生を始めたとしよう。それは、いまやXの主食となった木の実を付ける植物の進化の可能性もあるが、詳細はどうでもいい。

その新種の植物は、Xが食べる木の実と見た目が全く同じで、Xからは識別できないものとする。当然Xはその木の実も食べてしまうのだが、残念ながらそれは毒性が強かった。Xが食べると、たちどころに死んでしまう。

もはやその木の実を食べないXはいないため、Xの一部は新種の毒木の実を食べて次々と命を落とす。Xが生き延びるためには次の条件を満たさなければならない。

1,安全な木の実をたくさん食べる
2,毒木の実を一つも食べない

この二つを、最低でも大人になって子供を残すまでの間満たし続けない限り、その個体の適応度は0になってしまう。

毒木の実の群生具合にもよるが、これが安全な木の実と同数程度まで広がってしまった場合、もはやXに生き残る道はないだろう。

無数に食べる木の実のうち、たった一つでもハズレを引いたら終わりなのだから。コインを100回投げて、全部表が出なければ死亡、なんてゲームで生き残れる自信があるだろうか?

もちろん、こういうときのために自然淘汰がある。おそらくXの中には変なのがいて、なぜか木の実を食べない。あるいは、何かしらの違いを察知し、毒木の実を識別できるようなのが誕生するかも知れない。

そういった個体だけが生き残り、子供を残すことで、今度は毒木の実を避ける力を持つ新種のXが誕生することは大いにあり得る。

が、ここでは話の都合上、Xが絶滅したと仮定する。

これは適応進化だったのだろうか?


さて、以上の物語によって、Xは絶滅した。すなわち平均適応度が0になった。

木の実を食べられるようになる進化以前にも、それなりには生息していたのだから、結果的には適応度が減少したことになる。

適応進化とは、環境に適した形質を持つ進化なのだから、適応度も上がるはずだ。でも下がった。じゃあこれは非適応進化だったのか。

しかし、確かに一度は適応度が上昇した。その進化のおかげで上昇は経験したのだから、適応進化と言えるのかも知れない。

これがよく分からない。

結局のところ、ある進化によって適応度が上がったとか下がったとか、環境中で有利な形質を獲得したとかしなかったとか、それは環境の変化を計算に入れない場合にしか言えないのではないか。

環境が変化する以上、環境に対する進化の意味も、時と場合によって変わってしまうだろう。よって私は、適応進化という概念は非常に曖昧なもののように感じている。

そしてこれは、適応も同様だ。環境に適した形質を持つことを適応と呼ぶわけだが、じゃあ環境が変わってしまえば、その形質を持つことは適応ではなかったことになったりもするのではないか。

そんな視点を踏まえてしまうと、適応という言葉自体を放棄しないといけなくなる。してみると結局、適応という言葉は、観測者の観測時点での評価と言うことになるのではないかと感じている。

将来、この評価が覆ることを初めから受け入れた視点で使う言葉、というのが私の印象だ。




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