2017年10月9日月曜日

証明の限界。社会的に合理的な判断の必要性

後回しにしていた話をしよう。ろくでなし子裁判から考える、わいせつの定義の必要性(2)で触れた内容だ。

裁判では、「社会的に合理的な判断」なるものが出てくる。これは、人によって考え方が異なる。何が社会的に合理的か、そうでないか、という判断は明確に定義されていない。

当然、裁判官によっても違う考え方をすることがある。

さて、そのような曖昧な判断が裁判に入り込んでもいいのだろうか? もし、これを排除したらどうなるのだろうか?

証明とは何か


「証明」という言葉の意味についても、人によっては使い方が違う。私なんかは、「定められた公理系から、何かしらを導出すること」という程度に考えているが、これは一般的な用法ではない。

私にしてみれば、適当に公理系を作り、そこのルールに従って出てきたものは、みんな「その公理系から証明されたこと」になる。その公理系がどれだけいい加減で、役に立たないものだとしても、証明は証明だ。

「証明である」ということと「役に立つ」「価値がある」ということには何の関係もない。

が、普通の人にとっての「証明」とは、真実を明らかにすることであり、本当にそうだと言えることを確認することだろう。

私みたいな考え方は、公理主義に染まりすぎていて、一般とは剥離していることは自覚しているので、この記事では一般的な意味で証明という言葉を使うことにしたい。

一片の疑いも残さないような証明は不可能


裁判においては、証明が求められる。立証責任は訴えを起こした側にあり、刑事事件では検察側が立証責任を負う。だから、検察に対して、被告が犯人であることの証明を求めるのは当然だ。

では、どの程度の証明を求めればいいのかというと、人によって考え方が違っている。

十分に納得させられるような証明ではあっても、その証明が間違っている可能性、その証明の正しさに疑問の余地が残されている限り、十分な証明とは認めない立場の人もいる。そういう考え方をしているらしい発言は、時々見かける。

だが、そういう意味での、絶対に間違いのない、疑いの余地を残さない証明というのは不可能だ。

例えば、誰もが犯人であることを認めるような状況を想定しよう。公共の場で行われ、多数の目撃者の前でなされた犯行があるとする。監視カメラにも映っており、誰が見てもそいつが犯人であることは間違いない。

しかしながら、それでも疑いの余地はある。被告人はこう主張する。

「私が犯罪を行ったのを見たと言っている人たち。私の犯行が映像に残されていると言っている人たち。これらの人々は幻を見ているのです。そうでないというなら、幻を見ているのではないという証明をしてください。立証責任は検察側にあります」

確かに、人々が幻を見ている可能性はある。だからこれを否定しなければならない。しかし、どうやったらそれが証明できるだろうか?

幻と考えるには、目撃者が多すぎるのではないか? そんなに大勢がみんな揃って同じ幻を見ることなど考えられない?

いや、それでは疑いの余地を残さない証明にはならない。考えられないことが起きる可能性が否定できない以上、疑う余地はある。

誰かが目で見て確認する限り、どんな場合でもそれが幻覚である可能性が残る。つまり、見たり聞いたり触ったり、人間の五感に頼らないやり方で、映像に被告が映っていることを証明できればいいのだが、原理的に考えて不可能だろう。

映っている、とは、目に見えるということだ。しかし、見てしまった瞬間、それは知覚情報となり、幻覚である可能性を生じさせてしまう。

すでにこの時点で、立証は不可能になる。

仮に、科学的な証明ができたとする


なお悪いことに、これは純粋に科学的な証明ができたとしてもそれを無意味にしてしまう。

科学的な証明である以上、公理的な証明でもあるだろう。論理的、数学的、科学的な決まり事に従った上で、何かが証明される。

ところが、公理的な証明である以上、その公理系に従った場合での証明にしかなり得ない。そして、公理は証明できない。公理というのは、そもそもからして証明抜きで決めつける約束事だからだ。

ということは、いかなる公理的証明であろうとも、「その公理系が正しいという証明をしてください」と言われてしまえばそれまでだ。公理系の完全性なら証明できるが、公理系が無矛盾であるということと、公理が世界の真実を明らかにしてくれるということとは、全く関係がない。

社会的に合理的な判断の必要性


文字通りに、あらゆる疑問を解消するような、完全な証明を必要とするのであれば、全ての裁判は無罪にしかなり得ない。

だが、そんな馬鹿な話はないだろう。

ならば、このような極端な、ありとあらゆる疑問に答えるような証明は不要とするほかはない。そして、それを不要とするということは、何かしらの基準に基づいて、必要な証明とそうでない証明を分ける必要がある。

それが、「社会的に合理的な判断」だ。

我々の社会では科学は信じられている。論理学も、数学も重視されている。それが我々の社会だ。だから、この社会で受け入れられ、正しいものとして信じられているこれらに従った判断は、社会的に合理的な判断と見なされる。

もちろん、社会というものは変わりうる。時代と場所によっては、神学や預言が社会的に信じられていたかも知れない。その場合に、オカルトを信じて下す判断もまた、社会的に合理的な判断と言える。

そういうわけであり、人間社会というのは現代になっても、得体の知れない「そんなの当たり前だろ」という考え方が、裁判に登場しているということを忘れてはならない。


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