2017年10月13日金曜日

デカルトの有名な「我思う。故に我あり」は、ちょんぼだと思う

哲学を知らない人でも、哲学者の言葉を知っていたりすることはある。有名な言葉は時に引用されるので、耳にする機会もあるのだろう。

それだけに言葉だけが一人歩きしてしまい、本来の意味からずれてしまうこともある。この言葉もその一つだ。

今回はまず、言葉の意味を説明し、一般的な誤解を解いた上で、デカルトの考え方はおかしいのではないかという話をしてみたい。

この世に信じられることなんかあるのだろうか?


デカルトの出発点は、全てを疑うところからだった。保証のない世界。確実なものなどこの世に存在しないで語ったようなことだ。

あの記事に書かれている事の大部分を、人々は笑うかも知れない。そんなことまでいちいち疑うやつはいない。目の前のモニターが幻である可能性なんて疑うやつは頭がおかしい、と。

だが、そういう疑いを持ったのは私だけではない。デカルトもそうだし、懐疑論者というのはだいたいそうだ。疑う余地があるものは全て疑う。まぁ、デカルトの頭がおかしくないとは言い切れないが。哲学者なんてのは、だいたい普通の人から見たらおかしい。それは仕方ない。

さて、この世の全ては疑える。目の前のモニターも、今食べたご飯も、昨日の記憶も、歴史の資料も、何だって疑える。本当にそんなものは存在するのか、存在したのか、勘違いじゃないのか、幻じゃないのか。どこまでもどこまでも疑える。

デカルトは部屋に籠もってあらゆるものを疑ってみた。全てを疑い尽くした。

私の記事で疑った以上に、あらゆるものを疑った。私の記事ですら、非常識な疑いに呆れかえった人では、デカルトの懐疑にはついていけないだろう。もっと徹底していたのだから。

だが、疑い尽くした後、最後に疑い得ないものが見つかった。それが、「疑い」だ。

あらゆるものを疑うことはできる。実際やってみた。だが、「私は本当に疑っているのだろうか」という「疑い」だけは、どうしても疑いようがない。

なぜならば、疑った瞬間、疑いが存在してしまうからだ。疑いが存在することを疑うことで、かえって疑いはそこに生まれてしまう。

そうして行き着いたデカルトの答えが「我思う。故に我あり」。

この言葉の意味は、「我疑う。故に我あり」と表現した方が、わかりやすかっただろう。

この言葉は、認識の内容を保証するものでは全くない


しかし一般的には、デカルトの懐疑の内容は知られていない。デカルトがどのようにしてこの答えに行き着いたのかまでは、語られることは少ない。

この言葉を、ただの言葉としてだけ聞いた人は、だいたい誤解する。「私の思っている世界は、今私が思っているような姿で存在する」、そういう認識の正しさを保証してくれる言葉だと勘違いしている人が多いように見受けられる。

すでに語ったことからおわかりだと思うが、この解釈は正反対だ。真逆。デカルトは、自分の認識した世界が、認識したとおりにあるかどうかはいくらでも疑いようがある、と言っている。

それらはいくらでも疑えるのだが、ただ一つ、自分が疑いを持っている、自分が何かを認識し、何かを思っているというこの働きが存在することだけは確かだ。「自分は本当に何かを思ったのだろうか」という思いがあることは、間違いないのだから。

だからここでいう「我あり」は、どのようにとか、どこに、ということは定めていない。自分がどこにいるのかとか、どのようにいるのかとか、そういうことはいくらでも疑える。そして、その疑いを晴らすすべはない。

あくまでも、どんな風にあるのかは全く分からないが、どのような形であれ、存在はしている、という宣言だ。

決して「我思う。故に、(我が思うとおりに)我あり」ということではないので、この点には注意が必要だ。

しかしデカルトは行きすぎた


私はデカルトの懐疑は正しいと思っている。デカルトがたどり着いた答えには全く異論はない。私もまた全く同じように考えている。

しかし、デカルトの言葉はおかしいと思っている。和訳が間違った、ということはあるのかも知れない。私も原書から学んだわけではないので、どうしても翻訳という過程を経たものしか読めない。

が、調べてみた限りでは、やはりデカルトは、考える主体としての我を想定していたようだ。

その点で、私はデカルトはちょんぼをしたと見なしている。デカルトの懐疑は完璧だったが、その懐疑の中に「我」は出てきていない。出てきたのは「疑い」だけだ。

デカルトはもう一つ、「本当に我が疑っているのか?」と疑うべきだった。

デカルト式の懐疑によって、「疑いが存在する」ことは疑いようがない。だが、「我が疑っているのか」は疑う余地がある。疑いが存在するということと、誰が疑っているのかということは無関係だ。

もしかすると、私は「私が疑っている」と思っているが、実は別な誰かの疑いが頭の中に生じているのかも知れないし、そもそも、私などという人間はいないのかも知れない。

確かなことは「疑っている」事だけ。「誰が」かは明らかになっていない。にもかかわらず、デカルトは勝手に「疑っている主体は私に他ならない」と考えてしまっている。

これはちょんぼだと思う。

だから私なら、デカルトと全く同じ懐疑をこなしたあと、こう言うだろう。

「思う。故に、思いあり」


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