2017年10月27日金曜日

不安と虚栄と憎しみ。邪悪を生み出す三つの根源

15年ほど前だろうか。私が今よりも様々なことについて考えていた時期にたどり着いた答えがある。

人間社会に特徴的な、様々な悪や不正が存在する。これはいったいどこから来るのか。人間にそれをなさせる力は何なのか。

それが、これから語る三つだと考えている。人は何であれ、これら三つの力によって悪を行わされるのだと。

不安


不安というのは漠然とした心配のことだ。対象がはっきりしていないという点で、恐怖とは事なる。

「犬が怖い」というとき、恐怖の対象は犬だ。はっきりしている。失業を恐れているとき、ストーカーを恐れているとき、何を恐れているのかは分かっている。ストーカーの場合、誰がストーカーであるのかは不明かも知れないが、不安の場合はそれとは事なる。

例えば、子供を持つ親には様々な不安があるだろう。自分の子供が誰かをいじめはしないかとか、いじめられたりはしないかとか、交通事故に遭ったりしないかとか、誘拐されたりしないかとかだ。そういう、よからぬ事全般に対して、「そういうことがあるかも知れない」という漠然とした心配が不安だ。

恐怖との違いのもう一つは、対策の立てやすさがある。犬が怖いなら、犬に近づかなければいい。失業が怖いなら、上司の機嫌を取っておこうとか、業績を上げようといった対策が取れる。ただし、社会的な不景気のためにいつ倒産するか分からないと言うよう心配であれば、それは恐怖というよりも不安になる。

さて、不安によって不正を行う場合というのは、次のようなケースが考えられる。

「汚職が発覚するかも知れない。どうしよう」とか「業績不振がばれるかも知れない」「テストで不合格になるかも知れない」という場合、事実を隠蔽したり、事実を発覚させようとするものへの攻撃になったり、事実の改竄になったりする。

この心理は、自分にとって望ましくない現実を受け入れることを避け、他者に虚偽を示そうとするものだ。多くの場合、損失の回避という形を取る。

虚栄


虚栄というのは、実際以上に自分をよく見せようとすることだ。承認欲求なども虚栄の一種になる。

虚栄心というのは至る所で見かけるだろう。例えばゲームなどでは「Noob」などといって他者を罵倒する場面があるが、お前はどうなんだといわれれば、自分はもっとうまいと主張したりする。WoTの掲示板などででも、たいしたレベルではないプレイヤーが、いっぱしのプレイヤーのような口ぶりで話す。

そもそも多くのゲームでは、様々なスコアがある。WoTにも各種レーティングがあるわけだが、何を勘違いしているのか、レーティングを上げるためのプレイをする人も多い。あれらは元々は勝利への貢献度を数値化するためにできたはずだが、勝利を捨ててレーティングを稼いでいる人もいる始末。

なぜそんなことをするかといえば、レーティングを上げることで、人からうまい人だと思われたいからだ。

社会一般としてみれば、お金を稼ぐことが絶対視される心理も、虚栄に根ざしていると見ている。これについては社会を構成する力としての承認欲求でも書いたので、そちらを参照してほしい。

虚栄によって行われる不正の例としては、こういうのがあるだろう。

第一にはくだらない喧嘩。井上雄彦の漫画『バガボンド』でも語られているように、「俺の方が強いんだ」という虚栄が生むのが殺し合いの螺旋。パワハラの根源も、自分が相手より上位にあり、優越感を得るためのもの。

クレーマーがクレーマーたる由縁も、虚栄心を満たすため。自分がひとかどのものだと相手に認めさせたいため。

親や教師が子供を虐待するのも自分を認めさせたいから。その虚栄心を満たしてくれない子供だから腹を立てる。

あるいは自分をよく見せるために嘘をつき、対立している相手の醜聞をばらまく。虚栄による不正もまた、自分に取って望ましくない現実を避け、他者に虚偽を示そうという点では、不安と似ている。

不安との違いを挙げるとすれば、不安が未来を見ているのに対し、虚栄は現在を問題にしている点だろうか。

憎しみ


憎悪によって不正がなされるというのは、分かりやすい話だろう。昔の恨みを晴らすための殺人事件などは、理解しやすい出来事だ。

いじめられた仕返しにとか、クビにされた恨みでとか、振られたからだの、親しい者の敵討ちだとか、そういう理由での攻撃はよく耳にする。

あるいはもっと対象が漠然としていることもある。自分の恵まれない境遇を社会の責任と見なして、社会の構成員を攻撃する例もある。「だれでもよかった」というような犯罪者の話を聞いたことがない人はいないだろう。

特に説明をするまでもなく、憎しみが悪をなすということは当然あることだと思う。

ちなみに一つ断っておくが、私はそういうことをするつもりはないので心配しないでほしい。私みたいなニートは社会になじめず、いつ「だれでもよかった」とか言って人を攻撃するか分からないと思われるかも知れないが、私がおかしくならない限りは大丈夫だ。

私は社会を憎んでいない。私はそれほど長くはないかも知れないが、誰も傷つけたいとは思っていない。

私がおかしくなった場合は別だが、私はすでにおかしい。狂気は狂気であるが故に揺るがない。正気は移ろいやすいものだが。

より動物的な欲


実は、不正は以上の三つだけで行われるわけではない。それは、私自身分かっている。だが、どうにもそれらの不正は、なんとも非人間的なので、扱いに困る。

例えば、不安の例として「汚職が発覚するかも知れない」というのを挙げた。汚職がすでに不正だ。ならば、汚職を行った原因があるはずだが、これは三つのうちどれとも限らない。

不安に根ざす場合もあるだろう。例えば政治家が、「汚職に手を染めないと、次の選挙で落選するかも知れない」という場合もあり得る。憎き対立候補を落選させるために不正を行ったかも知れない。政治家になったことを褒めて貰うためだったかも知れない。

だが、そうではないこともある。ただ単に、お金が欲しかった、とか。

例えば人がコンビニやスーパーでガムやらお菓子やらを盗んでしまうとき、そこに難しい心理が潜んでいるとは限らない。ついやっちゃった、ということも多いだろう。

こんなものは、カラスが光り物が好きだから取ってきてしまうようなことだ。動機があまりにも動物的すぎて、人間の心理として扱いがたいものがある。

そういったさらに根源的な、動物的欲求による不正もある。我々はそれを、欲望と呼んでいる。動物たちにも見られる、人間特有ではないものだ。

類人猿では、個体の識別機能も高まっており、あいつのせいで怒られた、ということが理解できたりするようだ。あるいは、彼らは憎しみを持てるのかも知れないが。

人間社会において、欲望によって行われる悪の多さから見ると、人間はだいたい動物的に生きてるんだなということが分かる。逆に言えば、人間らしさを生み出す心理が、人間的な不正を生み出してもいるのだろう。


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