2017年10月10日火曜日

絶対言語という幻想。正しい言葉の使い方

私もアマチュアとは言えライターの一人だから、言葉の使い方にはこだわりがある。様々な記事を目にしては、「この表現はおかしい」とか、「この言葉は、こういうときに使うものではない」と突っ込みを入れる。

しかし同時に、「言葉は意思を疎通するための道具にすぎないのだから、伝わればいい」という考え方を支持している。現代風の表現にも、ら抜き言葉にも寛容だし、テストで点をもらうための言葉遣いには興味がない。

が、今回はそういう意味での「正しい言葉の使い方」とは違う主題を扱う。

今回のテーマは絶対言語。文脈によらず、常にある言葉が一つの意味で解釈されるような体系のことだ。このような言語があれば、我々はその言葉を用いて、文脈や行間から解放されて、意思の疎通を図ることができる。

だが、そんなものは存在しない。

絶対言語は造語らしいので、その辺注意


まず先にお断りしておくと、「絶対言語」なる日本語はないようだ。

これをググっても、出てくるのは創作サイトでの使用のみ。この意味を表すちょうどいい日本語がないので、この記事ではこの言葉を利用させてもらうことにする。

言理によって完璧に定義された理想の言語体系。そこに解釈の幅は一切存在せず、何者がいかなる文脈において用いても、表現すべき内容のみをただ一意的に伝達できる。(ゆらぎの神話百科事典

私も昔、こういう言語を理想としていた。人間はこれを開発し、それによってすれ違いようのない会話をするべきだと考えていた。

もし絶対言語が存在するならば、我々の会話、文章は誤解を免れることができる。曖昧さによって意味を受け取りかねるようなこともなくなる。

もしかしたら存在はしても、学ぶのは難しいということはあるかも知れないが、契約書やら規約やら法律やら、どういう意味か図りかねるような文章も、誤解の余地はなくなる。「そういう意味だと思わなかった」というトラブルをなくせるだろう。

絶対言語の非存在証明


しかしながら、このような言語の体系を完成させることはできない。例えば日本語をベースに、次のような表現があったとしよう。

「富士山に登りなさい」

この言葉の意味を解釈するとして、「富士山という名前の山に登ってきなさい」と受け取るのはごく自然だろう。むしろ、それ以外の意味で受け取れるのだとしたら、その時点で絶対言語ではあり得ない。

さて、これが富士山以外の山だったとしても、言っていることは変わるまい。対象が変化するだけで、命じている内容は登山だ。

これを少し砕けた日本語にして、「富士山に登れ」とか「富士山登れ」だったとしても、意味が変わるわけではない。絶対言語はこういった横着が許されないのだ、という可能性はあるのだが、そこは問題にならないのでスルーしておく。

ではさらにもう一歩書き換えて、「フジサンノボレ」だったらどうなるだろうか? 漢字とカタカナで意味が違ってしまうのだとしたら、文章と発話でも意味が違ってしまうことになる。なんだ、絶対言語ってそういうものなのか? それじゃ下手すると、ゴシック体と明朝体でも意味が違ったりするんじゃないか? 絶対言語なんて役に立たないな。

ということになってしまうので、漢字とカタカナで意味が違うなんて事はないだろう。

フジサンノボレも、ダイセツザンノボレも今までの用法と一緒だ。ちょっと読みづらくなったくらいの差しかない。

ところがこれが、「ニイタカヤマノボレ」になると、全く違う意味になる。

もちろんこれを、「新高山という名前の山に登ってきなさい」と解釈する道はある。そういう意味で使用することは当然可能だ。だが、ある程度歴史を知っている人なら、全く違う意味で受け取るだろう。

第二次世界大戦中、日本は真珠湾に奇襲をかけたわけだが、その真珠湾攻撃を決行せよという命令文が、「ニイタカヤマノボレ」だった。

この、暗号文としての使用可能性が、絶対言語の成立を不可能にしている。我々がどれほど頑張って絶対言語らしきものを作り、その言語の体系を定義しようとも、その定義が文章でなされる限り、そこに暗号文としての意味が含まれていないことを保証できないからだ。

「この言語体系の成立において使用される言葉は、暗号文として用いてはならない」という約束事を付けることはできるが、もちろん無意味だ。この約束事が暗号として使われていないことが保証できない。

記号や仕草、他の何かしらによって組み立てても一緒。そこに単一の意味しかないことを、誰がどうやって保証してくれるのだろうか?

不確定な世界。分からないなら分からないなりに試すほかはない


結局のところ、文脈によらず常に一定の意味を持つような言語体系は作れない。我々は、いちいち時と場合に照らしながら、言葉と付き合わなければならないわけだ。

保証のない世界。確実なものなどこの世に存在しないでも語ったことだが、私はこの手の不確実さには慣れきってしまっている。

かつては絶対言語を理想としていたが、もはやそういうものを必要としていない。今の私は言葉は歩み寄りによって使われるものだと考えている。

発言者は、解釈者がどう解釈するだろうかを考えながら、意味が正確に伝わるように調整して発言するべきであり、解釈者は、発言者が自分に何を伝えるためにそう発言したのかを考えながら解釈するべきである。

発言者が優先されるのでも、解釈者が優先されるのでもない。試みが失敗したら、お互いに歩み寄って微調整する。

これが、私の考える正しい言葉の使い方だ。


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