2017年8月3日木曜日

お行儀がよすぎておぞましい人々

日本人のお行儀の良さは外国でも評判のようだ。確かにお行儀はいいかもしれない。しかし、それらの人々の心の奥底に眠る冷酷さや残虐さ、あるいは嫉妬か後悔かは、あまりに醜い。

均質性を重んじ、没個性的と言われることの多い日本人だが、自分たちの当たり前と遠い存在に対する敵意の強さのおぞましさを見ると、お行儀がいいのも考え物だなと感じる。

とりあえず昔話でもしよう


私は小さい頃おばあちゃんの家で育った。普通、私くらいの年になると、というか成人すると、祖母とか呼ぶのが通例なのだが、私にとってはおばあちゃんだから仕方ない。中卒ニートに、そういうお行儀を期待するな。

おばあちゃんは時代劇とか刑事ドラマが大好きだったようで、毎日見ていた。多分、本当に毎日だったのではないかというくらいに見ていた。

水戸黄門。暴れん坊将軍。大岡越前。八百八町夢日記。子連れ狼。桃太郎侍。遠山の金さん。月影兵庫は・・・タイトルなんだっけ。三匹が斬るは、家に戻ってから見たような気がする。まぁ、ずいぶん昔のことだから、細かいところまでは覚えていない。

ざっと書き出してもこれだけある。刑事ドラマは何だったかな。刑事貴族とはぐれ刑事純情派が多かった気がする。

しかし私の記憶では、大河ドラマは見ていなかったはずだ。その時間帯、ほかに見たいものがあったのかもしれない。あるいは、歴史には興味がなかったのかもしれない。時代劇も刑事ドラマも、根っこのところでは共通してる。義理と人情が合い言葉だった。

私はあまり感情が強くない。いや、実際はそんなことはないんだが、一般生活を送る上では感情を高ぶらせることはほとんどない(WoTの○ソNoob共。おまえ達は別だ)。繊細な人々が気にする微妙なニュアンスや、やりとりにも無頓着だし、何でそんなことを気にするのかすら実感できない。

だが、悪人にもいろいろいる、という点では私は細かく識別できる。

時代劇に出てくる悪党にも種類がある。たとえば盗人にも2種類いる。「火付け押し込み何でもやる」奴と、「俺は殺しはやらねえんだ」という奴。

どっちも悪人であることに変わりはない。おそらく、現代のお行儀のいい人々はその二者の区別がつかず、「どっちも盗人なんだから、何が違うの」というところだろう。

だが、私にはその二つは全く違う存在だ。言葉にして解説するのは難しい。これは多分、論理的に定義できるような違いではない。無理して定義しようとすれば、どこかでほころびが出るように思う。

常識外れの行為に対するおぞましい敵意


たとえば、車の運転免許を持たない未成年者が事故を起こして死亡したとする。すると人々は、死亡してしまったことを悲しんだり、残念だと思ったりはしない。代わりに、死んでくれてよかったとか、免許もないのに運転するのが悪いんだとか、そういう話になる。

無免許運転は悪いことだ。それは非難されるべきことだ。だが、無免許運転に対する法定の罰則は、死刑ではない。彼らは死がふさわしいと言えるほどの悪事を働いただろうか?

あるいは夜遊びをしていた子供や女性が襲われて殺害されたとする。すると出てくる言葉は「子供が夜遊びするからいけない」、「家にいれば死なずにすんだのだから自業自得だ」。彼らにとっては、夜遊びには死が相応しいもののようだ。

教師が子供に体罰を加えて怪我をさせたときも、子供が生意気だったり言うことを聞かなかったのであれば、教師に罪はないと考えている。言うことを聞かないガキはぶん殴ってかまわない、大人様の言うことを聞かないという時点で、許されない罪を犯してるのだ、というわけだ。

しかしながら、私の感覚からすれば、その程度のことで死ぬのが当然とも、怪我をさせてよいとも思えない。注意は必要かもしれないし、指導をするのは結構だが、そのような攻撃を受けるべき必然性は認められない。

だが、彼らは違う。お行儀のいい彼らは、お行儀の悪いものに対する、得体の知れない敵意を持っている。たかが夜遊びしていただけの人が殺されて、同情より先に、ざまあみろと言えるその神経は、あまりにもおぞましい。

この感覚は、時代劇に出てくる2種類の盗人に感じるものと同じだ。同じく犯罪者に分類されるとしても、凶悪犯と、無免許運転ではその罪の重さが違いすぎる。私には、厳然として、その二つには大きな違いが感じられる。

だが、人々は犯罪者であることには変わりがないという風に、死すら当然と見なすのだ。

遵法精神によるものではない


だがそれは、お行儀のいい人々が法を重んじているからだという意見もあるかもしれない。法律を尊重するが故のことならば、悪いことばかりではないとも言える。だが、それはあり得ない。

道路事情を見たまえ。法定速度を守っている車がどれほどある? 制限速度50kmの道路を時速50km以下で走ってる車を、どのくらい見たことがある? 遵法精神によるものならば、その人々は皆道路交通法を守っていなければならないだろう。

まさか、お行儀のいい人々はスピード違反をしないなんて、信じないよな?

彼らにとってはそれはいいんだ。だってみんなやってるから。みんな10km20kmの違反はしてるじゃないか。だから俺様もやっていい。でも、無免許運転や夜遊びは、みんながやってることじゃないだろ。だからだめなんだよ。

彼らの敵意の基準は、違法か適法かではない。普通か異常かだ。

日本人の均質性への憧れは病的だ。強迫症なんじゃないかと思えるほどに。普通であることを願い、そこから外れることに怯えている。人々の敵意の根源がなんだかは、私にも分からない。

同じ願いを持たないことへの憎しみかもしれない。一神教の信者が、同じ神を信仰しない者を憎む気持ちに似ている可能性もある。

あるいは、同じ恐怖を持たないことへの嫉妬かもしれない。心のどこかで自分もそうありたいと願いながら、なれなかったことを悔いているのかもしれない。多分、いろんなパターンがあるだろう。全員が一緒というわけではなさそうだ。

この均質性への強迫観念が人々の心を病ませている。「みんなに好かれること」という普通の姿を求めて、SNS疲れを引き起こし、キャラクターを演じることへの疲れも引き起こしている。

日本社会には様々な敵意が渦巻いているが、その多くの根源になっているのは均質性を基準とした価値判断とみている。「みんな違ってみんないい」というキャッチコピーは、ちょっと軽薄すぎて私も受け入れがたいが、社会がもう少し異質なものを受け入れられるようになることは、状況を改善するだろう。


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