2017年8月20日日曜日

ろくでなし子裁判から考える、わいせつの定義の必要性(2)

ろくでなし子裁判から考える、わいせつの定義の必要性(1)で、定義されていないものなんかたくさんあることを述べた。

そのため、私はわいせつも無理して定義する必要はないし、わいせつ物にしか見えなければわいせつ物として扱ってかまわないと思うわけだが、この考え方に問題がないわけではない。その辺も解決しておこう。

まずはさっくりと


もしかすると「犬や熊の識別は誰にでもつくから定義を確認する必要はないが、わいせつの識別は人によって異なるので定義が必要だ」という人がいるかもしれない。

これについては、「じゃあ、犬や熊の識別がつかない人、つけたくない人が、対象が犬かどうかは分からない。猫かもしれない」と言い出し次第、定義が必要になるんだね? ということで終わってしまうので、さくっと次に行こう。

恣意的解釈の可能性


裁判を受ける側の人間にとって、法律の恣意的解釈は恐るべきものだ。全然関係ないように思える文言でも、曖昧であり、未定義であるならば、もしかしたら関係してしまうかもしれない。定義がされていないと言うことは、何とでも言えるのだから。

第二次世界大戦の日本の攻撃は、防衛戦争だったと主張することができる。それはなぜなら、「防衛戦争」というものの意味が未定義だからだ。定義されていない以上、何とでも言える。それと同じことが、一般の裁判でも生じない保証はない。

そういう理由で、定義がなされていない状態で人が裁かれることに対して強い不安を抱くことは、自然な流れだ。

そして事実、裁判というのは完全な立証の元に有罪判決が出されるわけではない。

どうしても、社会通念上の合理的な判断というものが入り込む余地がある。これの入り込む余地を認めないとなるとまたとんでもないことになるので、それはまたいずれ記事にしよう。

この社会通念とか、合理的判断とかは、定義されていない。その場その場で裁判官が別個に判断する。現時点ですでに、明確な定義のない状態で、恣意的に判決が出される余地はある。

だが、それがそれほど問題だろうか? 問題視する人はいるだろう。だが、多くの人間はどうだろうか。社会通念だとか合理的な判断だとか、そんなもの裁判所に持ち込むべきではないという人はどのくらいいるのだろう。

少なくとも、これが一般的にそれほど大きな問題になっているようには見えない。つまり、多くの人々は、恣意的判断が裁判に入り込む余地があるということ自体は、受け入れていると言うことだ。

ならば、同じように未定義用語も受け入れればいい。それが恣意的解釈によって、不当な判決が下る可能性は否定しないが、だってもう社会通念とか受け入れちゃってるじゃん? 何が違うの?

最終防衛線はいつだって選挙だ


もちろん、私だってその恣意的解釈が拡大していき、何でも好きなようにおかしなやり方で人々が裁かれるという状況は望まない。だから、もしエスカレートしそうなら、どこかで歯止めが必要だ。

では、歯止めの当てはあるのか?

ある。

それが選挙だ。

裁判所が・・・おそらくは政府に主導されてということにはなると思うが、不当な判決を出し続け、これ以上好き放題を許すわけにはいかないとなったら、選挙でその主原因となる政治家を落選させればいい。

そういう状態を解消してくれる政治家を当選させればいい。自分がなってもいい。

民主主義国家というのは、選挙のある国というのは、そういうやり直しができる国だ。民主主義とは、失敗しないための政治体制ではなく、失敗を長引かせないための政治体制なのだから。

私が危険な自民党の憲法草案。緊急事態条項で選挙がなくなる(1)で危険性をことさらに強調しているのは、選挙権さえあればやり直しがきくからだ。だからこそ、選挙がなくなる可能性だけは受け入れてはならないと、そう訴えている。

そしてまた、選挙にそれだけの力がありさえすれば、ごく一部の勝手に不当な解釈でもって判決を出す裁判官には悪評が集まり、そういう裁判官に対処しようとする政治家も現れやすいだろう。それが次の選挙の獲得票につながるなら、嬉々としてやることになる。

してみれば、未定義用語を未定義のままにしておいたからといって、それで直ちに好き勝手に悪用されるなどということは考えられない。この件については、可能性の上での危険性を肥大化させすぎて、不必要に怯えているように見える。

このような話を、ニートがすることには違和感を持つかもしれない。結局のところ、これは表現の自由に話がつながっていくし、ニートは表現の自由が大好きなはずじゃないか。体制側、自由を制限しようとする側の肩を持つのはおかしいと感じる人は多いだろう。

だが、私はそこまで極端じゃない。私は自分を生粋の自由主義者だと信じているが、だが、自由というのは「なんでもあり」とは違うものだ。どのくらい違うかといえば、エピクロスと刹那主義者くらい違う。

ま、その辺もそのうち書くことはあるだろう。




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