2017年8月18日金曜日

ろくでなし子裁判から考える、わいせつの定義の必要性(1)

ろくでなし子という人が、わいせつ物陳列罪などで訴えられた事件は、結構広く報じられており、知っている人も多いだろう。

ここでは「わいせつとは何か」という定義が問題とされ、それが未定義であることによって、わいせつとして裁くことの不当性を訴える人はかなり多いように見える。

しかし私は、そんなに厳密にわいせつを定義する必要はないし、「どう見てもわいせつ物だからわいせつ物として扱う」ということは、自然なことだと考えている。

定義の必要性と限界


ろくでなし子を擁護する意見としては、ろくでなし子の主張と同様、「わいせつが厳密に定義されていない。それでどうして対象がわいせつと断定できるのか」というのが一般的だろう。

この意見の根底にあるのは、定義の必要性だ。「まず、対象をXとして扱うなら、Xの意味を定義して、対象がXの定義を満たしていることを確認しなければならない」と、そういう、一見すると当然のことを言っているように見える。

確かに、Xの意味が未定義では、対象がXなのかYなのか分からないし、どう見てもAであるものも、未定義だからという理由でXと見なされるような懸念も残るだろう。そういった不確実さを排除するためには、どうしても定義が必要だ。

ところがわいせつにはそういう定義がない。よってわいせつと断定するのは不当だということになる。

しかし問題は、定義がなされていないものなんか、世の中には無数にあることだ。

犬の定義とは何か?


たとえば、犬。犬を知らない人はいないだろう。犬を見て、犬だと思わない人もいないだろう。では、犬の定義はご存じだろうか?

私の電子辞書に入っている、広辞苑第五版によると、犬の最初の意味は次のように説明されている。

ネコ目(食肉類)犬科の哺乳類。よく人になれ、臭覚と嗅覚が発達し、狩猟用・番用・軍用・警察犬用・労役用・愛玩用として広く飼養される家畜。品種も日本在来の日本犬(秋田犬・柴犬など)のほか多数あり、大きさ・毛色・形も様々である。

おわかりとは思うが、これは定義ではない。よく人に慣れない犬でも、やっぱり犬だ。耳が聞こえなくても犬であることに変わりはない。

我々が対象を犬として扱うかどうかは、ここに書かれていることに合致するかどうかを確認して決めることではない。

では、広辞苑のこの説明は何かといえば、犬の一般的特徴を表している。どうやったら一般的特徴を知ることができるかといえば、たくさんの犬を調べて、確認することによってだ。つまり、辞書的定義に従って犬であるかどうかを判断するのではなく、犬であると見なされた対象をたくさん観察することで、辞書的定義を書き出すことができるようになる。

その成立の順序からいって、辞書を見ても犬の定義など書いてあるわけがないことになる。

では、どうやったら犬をたくさん観察できるだろうか。観察するべき対象が犬なのか犬じゃないのか、それはどうやったら判別できるだろうか?

いや、どうやっても何も、どう見ても犬なんだから、犬なんだよ。犬を観察するにあたって、本当にそいつが犬かどうか、別な定義に照らして、定義を満たすかどうかなんて確認はしちゃいない。

犬に見える。だから犬として扱う。

それだけ。

では、犬を定義してみようか


なるほど結構。現在のところ、犬は定義されていない。じゃぁ、これからでもいい、犬を厳密に定義するべきだ。

そういう意見もあるかもしれない。そうすれば対象が定義を満たすまでは、断定してはいけないという主張に筋が通せる。だが、これは現実社会にはそぐわないやり方だ。

もし仮に、厳密に犬を定義する方法があるとしたら、遺伝子的な定義になるのではないだろうか。犬の習性や形状、能力などで定義するのでは、個体差が大きすぎる。余すことなく犬を正しく犬と定義できる、厳密な定義があるとすれば、遺伝子しか思いつかない。

だから、生物学的知見に基づいて、ある種の遺伝子配列を持つ生物を犬として定義する、ということも可能だ。こうすれば、「どう見ても犬だから」ではなくて、「犬の定義を満たすから」犬として扱うことができる。

いや、すでに言ったように、このやり方は無理がある。

しばらく前・・・何年か前に、千葉県だったか。どこかで警察官が拳銃を十数発発砲して、野犬を射殺したことが話題になった。野犬といえども、撃ち過ぎだということで話題になったが、あれがもし野犬じゃなくて、人間相手だったらどうなっただろうか?

さすがに、人間相手に十数発撃ち込んで射殺したら、大問題になる。当然ながら、相手が人間でないことは確認しなければならない。私は動物好きだから、犬なら殺していいとは言わないが、社会的影響力を考えれば、犬であることの確認は必要だろう。

ところがだ。

犬を遺伝子によって定義し、対象が犬としての遺伝子を持っていることを確かめて始めて、対象を犬として扱うことが許されるようになると言うことは、遺伝子を確認するまでは犬として扱ってはならないと言うことだ。

暴れている野犬を取り押さえて、毛なり血液なり、体細胞を採取して検査に出し、「はいOK、犬の遺伝子を検出しました」という報告を受けるまで、犬として扱わないというのだろうか。

そもそも、それが採取できるほど取り押さえられているなら、発砲する必要がなかったりしないか。

犬ならばもしかするとまだいいかもしれない。熊はどうする? まさか、犬は遺伝子で定義するが、熊は違うやり方で定義するとか言い出さないだろう?

我々は熊に見える対象がいたら、熊だと思って逃げる。そいつが人間の住居に侵入したら、射殺するか麻酔銃を撃ち込んで捕獲するかだ。対象が熊の定義を満たすかどうかなんて、誰も気にしない。

どう見ても熊だから熊として扱う。

当たり前のことをしている。


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