2017年8月11日金曜日

クレタ人は嘘つきだのパラドックス解決法

「クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言ってしまったらどうなるのか? 有名なパラドックスとして知られ、自殺者すら出ているけれども、解決ができないわけではない。

人々の先入観、思い込みがいかにしてパラドックスを作り上げてしまうか、そのあたりを見てみよう。

エピメニデスのパラドックス


古代ギリシアの哲学者エピメニデスの言として、「クレタ人は嘘つきだ」というものがある。

「嘘つき」という言葉の意味にはいくつかの解釈があるだろう。普通の人と比較して嘘をつく頻度が高い人のことを指す場合もあるだろうし、重要な場面で嘘をついた過去がある人のことを指したりもするだろう。

だが、今回の記事では「嘘しかつかない人」、「発言のすべてが嘘である人」のことのみを「嘘つき」と呼ぶことにする。そうしないと、そもそもこれがパラドックスにならないので。

「クレタ人は嘘つきだ」が事実であるとすると、この発言も嘘であることになる。なぜならば、発言者のエピメニデスがクレタ人だからだ。

しかし「クレタ人は嘘つきだ」が嘘であるならば、クレタ人は嘘なんかつかないのだろう。ということはクレタ人は正直者ではないか。すると正直者であるはずのエピメニデスは、正直に「クレタ人は正直者だ」と言わなければならないはずなのに、クレタ人を嘘つき呼ばわりしている。

ならばエピメニデスは嘘つきであり、「クレタ人は嘘つきだ」という言葉はエピメニデスに関しては適切な表現となる。しかし、するとエピメニデスの発言は事実であることになるのだから、エピメニデスは嘘つきではない。

じゃぁ「クレタ人は嘘つきだ」が事実であるとすると、この発言も嘘であることになる・・・あれ、戻ってきたぞ?

言い換え規則の勘違い


ある朝。遠足を楽しみにしている子供を起こしに来たお母さんが言いました。
「今日は雨だよ」
遠足が中止になったと思い、子供は泣き出してしまいます。慌ててお母さんは言い直します。
「うそうそ。雨降ってないよ」
「何だよ-びっくりさせんなよー」、そう言って笑いながら、子供はカーテンを開けました。
雪が降っていました。

さて。この物語の問題はどこにあるのだろうか?

「今日は雨だよ」、という発言が嘘であることは確定している。これは問題ない。では、「うそうそ。雨降ってないよ」という発言は嘘だろうか? そんなことはない。確かに、雨は降っていないのだから。お母さんはこの点では、何も間違ったことは言っていない。

しかしながら、にもかかわらず子供は明らかに勘違いをしている。「雨が降っていない」と聞かされた瞬間、勝手に、晴れか曇りを想像してしまった。「雨ではない」という言葉は、晴れとも曇りとも意味していないのに。

これが、クレタ人のパラドックスを、パラドックスにしてしまっている原因だ。「雨が降っているというのは嘘だ」という発言が、晴れとも曇りとも意味しないように、「クレタ人が嘘つきというのは嘘だ」という発言も「クレタ人は嘘をつかない」ということを意味しない。

「嘘つき」という言葉を「発言のすべてが嘘である人」と定義した。すなわち「クレタ人は嘘つきだ」という言葉は、「クレタ人の発言はすべて嘘である」という意味になる。人々は、これが嘘であると聞くと、勝手に「クレタ人の発言はすべて事実である」と勘違いしてしまう。

「雨降ってないよ」と聞いた子供が、勝手に晴れか曇りを思い浮かべたように。

ふつーに日本語を直してあげればいい


「クレタ人の発言はすべて嘘である」が嘘ならば、「クレタ人の発言はすべて嘘である、のではない」ということだ。これは、「全部が嘘であるわけではないよ」になる。「クレタ人の発言には、嘘でないものもある」というわけだ。何というか、べつに、ふつーの人々としか言いようがない。

だから、件のお母さんに対して「二回も嘘をついた! お母さんは嘘つきだ!」というのは言いがかりということになる。もっとも、「嫌なお母さんだね」ということなら、全面的に同意するが。

しかし、この手の勘違いはしょっちゅうあっちこっちで見かける。相手の発言の意味を受け取りかねて、勝手に飛躍した解釈で話を進めてしまう例など、そこら中で見つかるだろう。

しかもこの手の曲解は相手に対する反論のためになされることも多く、曲解された側も、曲解であることに気づかないケースも散見される。そうすると話はどこまでもそれていき、分けの分からない言い争いに終始してしまうなんてこともよくある話だ。

彼我の発言の意味を理解し、それがどう受け取られるべきなのかを意識していれば、こういうすれ違いを避けることができる。無駄な時間を過ごさないためにも、もうちょっと言葉の扱いについて慎重になるといい。


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