2017年8月14日月曜日

スライムの殺戮を楽しむことを心配するのは、本当に不自然だろうか

ゲームや漫画など、虚構の世界での描写をリアルに結びつけて考える人々は、一定数いる。そういった作品を好む人々からは、「ゲームと現実を一緒にするな」などと言われたりするが、日本は、というか人間は、それらを完全に区別するような文化を持っていない。

ある程度仮想世界や、仮想のキャラクターを現実に重ねて見るのは当然であり、小さい頃から教わってきたことでもある。それ故に、一言で片付けられるほど簡単な問題でもないので、今回はこれを扱ってみよう。

スライムをひたすら殺して楽しむ心理を心配する心理


このようなニュース記事が公開されていた。

「子供がスライムの殺戮を楽しんでいます。モンスターや敵といえども、親もいれば子もいるでしょう。命を軽視する姿にショックを受けました」

それに対する大方の反応は、いつもの「ゲームと現実を一緒にするな」。それらを区別しない態度の方がおかしいと、そういう主張が多く見受けられた。

だが、このお母さんの反応というのは、不自然なものではない。そりゃあゲームの中といえども殺しを楽しんでいたら、うちの子大丈夫かなぁ・・・と思ってしまうのは、自然な流れだ。

おとぎ話以来ずっと続く、仮想と現実の重ね合わせ


小さい子供に絵本を読んであげることもあるだろう。子供というのは、そういう物語が好きなものだ。そのとき、親は「でもこれは作り話だからね。現実の話じゃないからね」などと教えるだろうか。

「いいかい、この子達はかわいそうなんかじゃないんだよ。だって、実在しないんだから」
「この子達は何も立派なことなんてしてないんだよ。だって実在しないんだから」

そんな話をする親は、普通はいないだろう。子供が「この子かわいそうだね」と言ったら「そうだね」と返してあげるものだ。「かっこいい」とか「すごい」とかいろんな感想があるだろうけども、その物語から受ける感想として自然なものなら、それを認め肯定して、そういう感受性を育ててあげようともする。

ではもしも、普通の子なら「かわいそう」と感じるはずの場面で「おもしれー、ウケル」と言い始めた子がいたら、どう思うだろうか。「えーなんだよ、結局ルドルフ勝っちゃうのかよ。犬に食われろよ」とか言い始めても、「まぁこれは物語だから。虚構だから、現実じゃないし、どう感じても問題ない」と納得するだろうか。

普通はしないだろう。するべきか、せざるべきかは問題にしない。普通はしないだろう。「この子大丈夫かな・・・」と感じるのはおかしなことじゃない。

ならばこの、子供がスライムを殺戮して喜んでいる姿に心配するお母さんの反応は、ごく自然だということになる。

物語に共感しないなら、いったい何故人はそんなに物語を好むのか


ドラマ、ゲーム、漫画にアニメ。仮想の物語など、人間社会にはあふれている。人々はそのすべてに対して、共感もせず、そこにリアルな何かを感じ取りもしていないのだろうか?

とてもそうは見えない。○○という登場人物がかっこよかったとか、いい人だなーとか、そういう、まるで仮想上のキャラクターを実在しているかのように評する場面はいくらでもある。そこで他者とは全く違う評価をつけたりすれば、言い争いにすら発展するだろう。

それらすべてを「仮想と現実の区別をつけろ」と解決するだろうか。していない。

してみると、それら物語を楽しんでいる人たちというのは、もともと仮想と現実を重ね合わせて受け取っている。そのこと自体は、ごくごく自然で当たり前の反応だ。

問題になるのは、じゃあ、どこで線を引くかという部分だ。重ね合わせはする。それはそういうものだ。だが、どのくらい重ねるかは人による。そしてこの重ね方の程度次第で、様々な問題が出てくる。

物語の規制と不満


ある小学生の女の子が、ある漫画を好んでいました。その子は人を殺しました。だから、その漫画が悪い影響を与えたのです。

昔、そういう事件があった。オタクというのは昔からあまり良く思われない傾向にはあったが、こういった事件などにより、なおさら漫画やアニメが人間性に有害なものだというレッテルを貼られてしまった。

そのために漫画などでも表現を自粛する方向に動き、漫画を好む人々としては、楽しみを取り上げられた形となった。だから彼らは、仮想と現実の重ね合わせが規制に繋がることを学んだ。よって、自衛手段の一つとして、「仮想と現実を一緒にするな」という呪文を生み出したのだ。

しかしこの呪文は、適切に使われなければ効果を失う。ある程度までの重ね合わせは、文化的に当然のこととなっている。その文化を全部まとめて否定するとなれば、むしろ人間社会から剥離してしまう。

それでは、呪文自体が無価値となる。我々の文化とは相容れないとなれば、受け入れてくれる人も減ってしまうからだ。

文化的に当然とされている当たり前の共感、その程度の重ね合わせすら否定するのは得策ではない。「すべてを守ろうとすれば、すべてを失う」。

曖昧なところに線を引くのは難しく、万人の一致は期待できない。だがそれでも、少しずつ調整し合って、多数の支持を得られそうなところに線を引くことは、文化から剥離した理念だけで強行するよりずっとうまくいきやすい。

何でもかんでも同じ呪文で片付けようとするのは、無理しすぎのように感じている。


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