2017年8月5日土曜日

自己責任論の行き着く果ては

自己責任というのは一般的な考え方だ。多かれ少なかれ人間はそういう考え方をする。

しかし、どこまで自己責任とするかでは、人々の態度は一致していない。その線の引き方にはいくつものパターンがあるし、線の引き方は非常に曖昧だ。曖昧にならざるを得ない。

ではもしも、線を引くことをやめて、どこまでも自己責任を認めていった場合にはどうなってしまうのか。それを見てみよう。

責任のない世界はどうなるか


まず、逆の極みを見てみよう。自己責任という概念が存在しない社会では、人々はどのように振る舞うだろうか?

社会的に見て、「自己責任」という言葉が声高に用いられるときと言うのは、まず100%他者を非難したいときだ。たとえば「ニートがニートなのは自己責任」、「犯罪者が社会復帰できないのも自己責任」、「アイドルの恋愛禁止も、契約に合意したんだから自己責任」などなど。

「悪いのはおまえ自身だ」という意味の表現としてしか、一般的にはまずこの言葉は使用されない。

もしも自己責任という考え方がなければ、一部ニート達の主張する「自分たちがニートなのは社会のせい」、「うちらが結婚できないのも社会のせい」、「犯罪者を生むのも社会のせい」ということになる。

が、行き着く果てで生じる問題は、そんな生やさしいものではない。

痴漢が発生するのは誰のせいか? 普通に考えれば痴漢が悪い。痴漢だけが悪い。しかし、責任という概念を放棄した以上、痴漢に責任はない。痴漢は悪くない。

じゃあ、痴漢に痴漢しようという気にさせた被害者が悪いのではないか。被害者がそういう隙を見せるから悪い。ところが、責任という概念を放棄しているのだから、被害者も悪くない。じゃあ、痴漢が発生した現場の監督責任者が悪いか? いや、だから、その人にも責任がないんだって。

よって、何が起ころうとも、「誰も悪くない」というのが結論される。強いていえば、社会全体が悪い、ということになる。全部社会のせいにして、何をしてもいいことになる。無法状態だ。

自己責任とは何か?


人々が自己責任論を主張するとき、そこでは具体的に何が主張されているのだろうか?

端的に言えば、「自分の選択の結果は、自分自身で責任をとりなさい」ということだ。自分で選んだことなのだから、何が起ころうとも、悪いのは自分だよ。簡単に言えば、そういうことになる。

こういう考え方は間違ってはいない。この考え方を全部否定してしまうと、上述のようなことになる。それはあまりにもアナーキーだ。社会性のある生き物として、人間はそれを受け入れられないだろう。

だが、どの程度まで受け入れるのかについては、議論がある。たとえば、選択可能性が自己の決定権の範囲外にある場合どうするのか。

裕福な家庭で生まれた場合の方が、高度な教育を受けやすい傾向にあるという統計データが存在する。高度な教育を受けた場合の方が、高度な学問を修得しやすいという傾向もある。学歴が高い方が生活水準が高いデータもある。

そしてどのような家庭で誕生するかは、自己決定権の外にある。この場合、生まれた家庭の質によって変動しうる要素については、自己責任に求められないのではないか、という主張がなされる。

あるいは、失業率などの経済状況や、政治的環境などの影響を受ける要素についてなど。

が、そういった主張を額面通りに受け取ってしまうと、「俺様がニートなのは社会のせいだ」という言い逃れを認めることになるので、多くの人々はこういう考え方を好まない。

実際、どのような劣悪な初期条件からであろうと、名をなし立派に生きている人はいる。よって、初期条件は結果を固定していない。だから結局は、個人の選択の結果なのだという主張もある。

では、極限まで自己責任を認めるとどうなるのか、本題に入ろう。

再び訪れる無法状態


自分の選択の結果を、すべて自分で責任をとるということは、こうなる。

誰かに痴漢されたとしたら、痴漢されるような状態にいることを選んだ自分が悪い。服装なのか、時間帯や場所なのか、原因はいろいろあるだろうけども、されないようにできたはずだ。なのにそうしなかった。自己責任。

一部の頭のおかしな人は、ここまでは問題がないと見なすかもしれない。中には、本気で痴漢はされる方が悪いと思っている人もいるようだ。だが、それもここまで、次はさすがについてこられないだろう。

誰かに殺されたとしたら、殺されるような状態にいることを選んだ自分が悪い。恨まれたのか、利害関係なのか、原因はいろいろあるだろうけども、殺されないようにできたはずだ。なのにそうしなかった。自己責任。

人に恨まれる人と好かれる人がいる。人に恨まれる人生も恨まれない人生も選べたはずなのに、その人は恨まれる人生を選んだ。じゃあ、恨まれて殺されても、それは自分の選択の結果だよね。

殺されそうになっても、逆に相手を打ち倒す人もいる。武術を学ぶ人生も学ばない人生も選べたはずなのに、人に襲われても返り討ちにできる力を身につけない人生を選んだのは自分なのだから、それは自分の選択の結果だよね。

コンビニに不良がたむろしているのが見えたとき、買い物を断念することもできたはず。なのにそうせずに絡まれて殺されても、それは自分が選んだことだよね。

交通事故に遭ったとしても、それは接近する車を回避する運動能力を身につける選択をしなかった、自分の責任だよね。

戦争で多くの人が死んだとする。戦争を回避するために自分が政治家になる選択肢もあったのに、それをしなかった。自己責任だ。

とまぁ、こういうことになる。ここから導かれる答えは、「誰もが悪い」だ。この世には悪人しかいなくなる。あらゆる出来事の責任を、全人類が負うことになる。全員が悪いということは、社会全体が悪いという表現に変えられる。

自己責任をとことんまで追及したつもりなのに、いつの間にか自己責任を認めないケースと結論が一緒になってしまった。結局のところ、極端なもの同士は答えが似通うのだろう。

全く違う思想のはずの、国家社会主義と共産主義が、実のところ同じような内容になったように。

我々は、このいずれをも拒絶するほかはない。しかしそうすると、どこで線を引くべきかという問題に直面する。そういうのは、全員一致する線は引きようがない。

だが、「線を引かねばならない」ということには、ごく一部を除けば、ほぼ全員が一致して賛同するだろう。よって、あとは、自分の線の引き方を主張すると共に、他者の線の引き方にも一定の敬意を払わなければならない。

「俺様だけが正しいんだ」という主張をみんながすれば、後はもう大混乱しか引き起こさないのだから。


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