多くの文化では、男尊女卑が続いてきた。この傾向は現代でも依然として残っており、「どうして女は馬鹿なのか」という問いが、意味のある問いのように語られている。
生物学的に見ても男女には違いがあることが立証されているし、男女には差があるのだから、平等に扱う必要はないといった、ごくごく単純な、アホらしい主張もある。まずはこういった低レベルのものを片付けてみよう。
違いのないものなど存在しない
男と女では、脳の大きさが違うといった話は、もうだいぶ前から判明している。実際のところ、人間は脳を全部使っていないと言われており、大きさが違うだけでは能力差は示せない。
バケツとプールで、どちらの方が水が多く入るかと言えばプールなのはまず間違いないが、どちらの方に多くの水が入っているかは不明だ。それは、入っている量を計測するほかはない。入れ物だけ大きくても、意味はない。
しかし、違いがあることは間違いない。だから、違いがあるものを違った扱いをするのは差別ではないのだ、という論法がある。その論法が間違っているかどうかは難しいところだが、もしそれが正しいのだとすれば、この世に差別は存在し得ないことになる。
なぜならば、違いのないものなど存在しないからだ。
男と女には違いがある。当たり前だ。では、男と男には違いが存在しないのか? 男というのは全員同じ身長で、同じ年齢で、出身地も、食べ物も、学歴も・・・めんどくさい、とにかくそういったありとあらゆる点で、違いがないなんてことがあるのだろうか? あるわけがない。
ということは、ある男とある男でも違いはあるのだから、違いがあるものを違った扱いをするのは差別ではないことになる。
それだけではない。同じ人同士ですらも違いはある。たとえば、昨日の私と今日の私で、違いがないと思うか? 私の体を形作っている細胞は同じ細胞か? 新陳代謝しなかったか?
なるほど。だが、「違いがないものが存在しない」は言い過ぎだろう。そう思われるかもしれない。話はそれるが、もう少し続けよう。
たとえばデジタルデータはどうか? いくらでも全く同じ形でコピーできるではないか。これなら、全く同じ、違いのないものだと言えるのではないか?
無理だ。
あるデジタルデータは、コンピューターのメモリなりハードディスクなり、何かしらの記憶媒体に記憶される。それらは0と1の羅列で保存されることになるが、その0や1が保存されている物理的な場所は、それぞれに異なる。
あいうえお
あいうえお
この二つは全く同じ文字列なので、全く同じコードで表されるが、この二つの「あいうえお」は別々な場所に領域を持っている。全く同じものではない。
それがCDなりDVDなりに保存されているとすればもっとわかりやすい。同じデータでも、そのデータが記憶されている物体が異なっている。
こういった、「万物は変化する」という考え方は、古代のギリシアからあった。ソクラテスより古い、ヘラクレイトスにも見られる。「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」という考え方が理解できる人ならば、私が語った内容も分かるだろう。
もし、違いのないものがあるとすれば、それ自身そのものだ。ある瞬間でのそれ自身と比較するなら、それは確かに違いがないものかもしれない。だがそれは、比較するようなものではないだろう。
違いがあることは、差別をすることを正当化しない
以上により、万物には違いがあるのだから、「違いがあれば差別にならない」ならば、差別は存在しないことになる。が、我々は差別という概念を放棄しようとはしないものだ。「男女差別は差別じゃない」と言っている人たちも、自分が差別される段になれば、「差別だ!」とわめき始めるのだから。
では、どうすると差別なのか? 何であれ、違いのある者達を、どうして同じように扱わなければならないのか?
我々の文化のうち、差別を否定する一派の考え方としては、「その特徴が、劣悪な結果をもたらすことを保証しない場合、その特徴を理由に不利な扱いをすること」が差別として非難される傾向にあるとみている。
たとえば、「大阪は犯罪が多い。つまり、大阪人には犯罪者が多い。だから、大阪人は犯罪者予備軍として扱っていい」というような主張もある。本気でこんなことを言う奴は少数派だろうけども、実際に見かけるから恐ろしい。
しかし、大阪人であるという特徴は、犯罪者になることを保証しない。犯罪者になる大阪人もいれば、ならない大阪人もいる。というかむしろ、ならない人の方が圧倒的に多い。よって、大阪人を犯罪者予備軍として扱うことは、不当な差別と認識される。
たとえ実際に、大阪人とそれ以外との間に、犯罪者になる率に違いがあったとしても、この結論は動かない。
犯罪者の喫煙率がどれほどに高いとしても、喫煙者だから犯罪者になりやすいとみるべきではない。喫煙者を犯罪者予備軍として扱うことも許されない。
さて性差別に話を戻そう。「どうして女は馬鹿なのか」と問う前に、男と女での馬鹿率はどのくらい違いがあるのかと興味は湧くが、ここではそれは問題にならないので脇へ置いておく。仮に女の方が男よりも馬鹿である率が高いとしよう。
しかしながら、今までの例と同様、女であることは馬鹿であることを保証しないのだから、女を馬鹿として扱うことも許されない。結局のところ、利口とか馬鹿というのは、個人が持つ特徴であって、性別という抽象概念が持つ特徴ではない。
たとえば、「女は論理的思考ができない」とも言われる。当然、数学も苦手なはずだ。実際、トップレベルの学生の数学のテストでは、男子の方が成績が良いといわれている。「ほら、男の方が優秀なんだ」と、頭の悪い人は喜ぶだろうが、これはむしろ嘆くべきことだ。喜んでいられるのは、この意味が理解できていない人だ。
「男の方が数学ができるんだ」と思っている人たちのうち、何割くらいが、東大の女子大生よりも数学ができるだろうか? ちなみに、私はできないよ。私は数IIICは全く手をつけていない。2Bまでしか読んだことがない。しかも、Bはベクトルの最初の方だけだ。
IIICの分野の話になったら、私は全くちんぷんかんぷんでついていけないことは間違いない。何だ? 私以外の男は、みんな彼女たちよりも数学が得意なのか? 私だけが特別なのか?
んなわけあるか。
別に東大までいかなくてもいいぞ。もうちょっと下のレベルで比較したっていい。その女子大生が相手なら、すべての男が数学の能力で上回るなどと、本気で思ってるのか?
結局のところ、獲得点の上限や割合、分布などを比較した場合に、男の方が成績がいいという程度の意味でしかない。それでは結局、ある二人の男女のうちどちらが数学ができるかという問いになったら、実際に確かめてみる以外の方法は存在しない。
それはつまり、性差ではなくて、個人差で考えるということだ。
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