2017年8月16日水曜日

対案は必要ない。あったらありがたいが

世の中ではよく、ある種の非難に対して「じゃあ対案を出せ。出せないなら黙ってろ」という主張が出てくる。主に政治の舞台などで使用される場面が多いかと思うが、もっと身近な生活の場面ででも見かけるだろう。

実際のところ、対案などがなくても非難はできるし、非難することは正当だ。対案がないから黙っていなければならないなんてことはあり得ない。

正しい答えが分からなくても、間違った答えが分かることはある


対案は出せないが非難はできるという時というのは、言い換えれば「正しい答えは分からないが、それが間違った答えであることは分かる」時だ。

人によっては「正しい答えが分からないなら、その答えが間違っているかどうかも分からない」と考えているようだが、これは大間違いだ。

たとえば、1兆桁の数の1兆乗とかいう、スーパーコンピューターでも計算できるんだろうか? という問いに対して、正しい答えを出せる人はいないだろう。多分、書き出す前に寿命が尽きる。

しかしながら、かけ算というのは、因数に0が含まれない限り、積が0になることはない。よって、誰かがもし得意げに「その答えは0だ」と主張したとしたら、それは間違っていると指摘することができる。

よって、正しい答えは分からないけど、間違った答えは分かるというケースが存在することになる。

「対案がないなら口を出すな」とは何か


最初に出す案というのがどんなものになるかは分かったものではない。

たとえば、難病に苦しむ人の治療法として、ある人が「よし、この人に水銀を飲ませよう。古代中国では、不老不死の薬と考えられていた」と言い出すかもしれない。この人に対して口を出すためには、対案が必要になる。しかしそれは難病なんだ。治療法を提示できるなら、何も困りはしない。

しかし水銀は水俣病の原因であり、人間が服用しては毒になる。当然、そのくらいの説明はするが、意味はない。「じゃあ対案を出せ。今すぐこの人を治して見せろ」。

対案がなければ口を出してはいけないという主張を認めてしまうと、こういうことになる。我々としては、水銀など飲ませるわけにはいかないから実力行使をしてでもその行為をやめさせるだろうが、そのためには「対案などなくても、間違っていると言える根拠があればそれで十分だ」ということを受け入れるほかはない。

世の中には、答えの分からないものはいくらでもある。これは私の経験則だが、頭の悪い人間ほど事態を簡単に捉え、自分がその答えを知っているつもりになる。だから頭の悪い人間ほど、解決法を簡単に提示したがる。

するとどうなるか?

もちろん、そういう人が提示した解決法だから、いくつもの問題が見つかり、指摘される。そのすべてに対して、理路整然と自分の正しさを主張できるような能力はない。しかし、非難されるのは気に入らない。

じゃあどうしたらいいか?

ここで登場するのが魔法の言葉、「対案がないなら口を出すな」だ。

頭のいい人は事態を簡単に捉えない。複雑な問題を複雑に認識してしまう。それ故に、頭の弱い人ほど積極的には、事態の解決法を提示できない。よって、この魔法の言葉は、頭の悪い人が頭のいい人を黙らせるためには絶好の文句となる。

これがこの言葉の正体だ。

証明の手続き


Aが間違っていることを証明するために、A以外の何か、たとえばBの正しさを証明する必要はない。必要はないというか、条件をつけない限り、その証明には何の意味もない。

仮に、Bの正しさを証明したとしても、Aが間違っている証明にはならない。ABの両方が正しい可能性が否定されていないからだ。

にもかかわらず、多くの人々は、A以外の何かの正しさが証明されるまで、Aの間違いは証明されたことにならないと考えている。嘆かわしい。

Aが間違っていることを証明するために必要なのは、Aが間違っていることの証明だ。それ以外ではない。それだけでいい。

そしてまた、Aが間違っていることが証明できないことは、Aが正しいことの証明にはならないし、Aの正しさが証明できないことも、Aが間違っていることの証明にはならない。

このあたりも勘違いされやすいので、後日記事にしようと思う。

よって、なんであれ「やらないよりいい」とばかりに、おかしなことをしようとしている人に対しては、対案も何も用意せずに、それはダメだと非難するのは至って正しい主張である。

悪手を指すくらいなら、一手パスした方がましだ。将棋と違って、必ず何かをしなければならないルールなどないのだから。

対案の出し方


しかしながら、では、対案に価値はないのかと言えば、そんなことはない。あった方がいい。そんなものは当たり前だ。

が、人々は対案の出し方はあまり心得ていないようだ。特に、お互いが敵対的関係にある際の対案の出し方を、かなり誤解しているように見える。

対案などと言うのは、出そうと思えばすぐに出せる。出したがるかどうかはともかくとして、ただ対案と呼べるものを出しさえすればいいなら簡単だ。

たとえば先の例に従って、難病の患者に水銀を飲ませようとしている人に対案を求められたなら、至って当たり前のことを言えばいい。

「患者の生体機能を維持したまま、この難病の研究を続けて、治療法を開発する」

これも対案だ。ただし、クレームはつく。

「いつになったら開発が完了するんだ。それまで患者は生きていられるのか。水銀を飲めばすぐに治るかもしれないんだぞ。今すぐに患者を治療できる対案を出せ」

とかなんとか、そんなことを言われるだろう。だが、相手にする必要はない。

「今すぐに患者を治療できる対案、などという条件をつけられる謂われはない。私はこの患者をどう扱うべきかについての対案は示した。おまえの求める条件など知らん」

これでいい。

対案というのは、その事態に対して自分ならどう向き合うのか、という意見でありさえすればいい。いちいち、相手の主張とすりあわせ、相手も納得してくれそうな形に調整してやる義理はない。

まして、このような対立的な主張なら、こちらが絶対に受け入れられないような案を出しているのは相手方も一緒なのだから。どうしてこっちだけ、相手に納得してもらえるように調整しなければならないのだろうか?

自分にも納得できる対案を出せと要求するなら、おまえも俺様が納得できる提案をしろ、ということになる。先に案を出した側は調整の義務がなく、後から対案を出す場合だけ相手の都合も考えないといけないなんて、それじゃただの先出し有利原則じゃないか。

とはいえもちろん、民主主義社会においては、他者からの賛同、支持というものは不可欠だ。多くの人に賛同されるような案を出す方が望ましいことは間違いない。

だからそのあたりも調整して案を練るというのは至って普通であり当然である。ただしそれは、案というもの一般がそうなのであって、対案にだけ求められる要件ではない。これを勘違いしてはいけない。


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